2023年1月3日火曜日

2023新春雑感

 2023年はいつものように平凡にスタートした。年末に義母が亡くなるというアクシデントがあったが、それがなくても昨年同様、今年も家族は妻の実家組と私とで分かれた。寂しい気もするが、それも仕方ない。この世の中は自分の思い通りにはいかないもの。思い通りにいかないからといって、それにストレスを感じていては自分が大変。逆に思い通りに行かせるとそれは他人のストレスかもしれない。家族にストレスを与えることを考えれば、家族がストレスのないようにするのが良いと思って納得している。

 年末に1人実家に帰り、昼に両親とともに年越しそばを食べ、夜はすき焼き。もう何年もの我が家の定番パターンを実家にも持ち込む。あらかじめお節を注文しておき、三が日はそれと雑煮で過ごす。料理とは言えないほど簡単なものだが、それでも自分で用意しなくて済むと母からはありがたがられる。こちらは以前のように上げ膳据え膳というわけにはいかなくなったが、それでも母親が喜ぶのであればそれもいいと思う。何より自分の自活力に役立つ。将来、1人暮らしになった時に役立つかもしれないと考えれば、自分のためでもある。

 母は最近、物忘れがだんだんひどくなって来ている。毎日同じ相談を受けるといいかげん嫌になるが、それでもグッと堪える。もともと「ああ言えばこう言う」式で、自分の非を認めないところがあったが、それも加速している。3分前の会話と逆のことを言うのも珍しくはない。その度に非難するのは簡単だが、老いた母親に普通に対応するのも良くないと思い、聞き流す努力をしている(なかなか難しいが・・・)。それでもまだ「瞬間的な会話」は普通にできるから良いと思うしかない。

 頼みの綱は親父なのであるが、親父は親父で毎日「自分の事」に忙しい。せめて少しぐらい家事をやったらと思うのだが、「男は仕事」の昭和世代にはなかなか難しい。食卓では昔話を楽しそうに語る。何回も聞いた話もあるが、貧しい農家に生まれ、中卒で東京に出て来て働いてきた親父であるから、そんな苦労が窺える話は何度でも聞きたいと思う。今のところ耳が遠くなったぐらいで、達者と言えば達者。父親の家系は長生きの傾向があるようであり、自分も90歳くらいまでは生きられそうに思う所以である。

 年末年始を実家で過ごし、三が日の最終日に誰もいない自宅に帰宅する。近所の氏神様にさっそく初詣に行く。家族で来ているところは羨ましい気もするが、その気持ちは抑える。参拝して破魔矢を買う。破魔矢とは文字通り「魔」を「破る」という意味なのだろうと参拝の列に並びながらつらつら考えていた。昔は、人知を超えることが多々あり、そこに祈りを見出したのであろう。人間には自分の努力だけではどうにもならないことがある。それゆえに神様の力にすがるという考えが生まれ宗教に発展したのだと思う。不幸の「魔」を追い払うという願いから破魔矢は生まれたのだろう。

 今は、科学も進み、神様の住む世界も狭くなっている。神様がいるかどうかという問題は、もはや真面目に問う問題ではないと思う。人間は「神様がいるという前提」で謙虚に生きるべきなのである。自分も傲慢になってはいけないと思う。そんな戒めとしては、新年の初詣はいい儀式である。願い事をするのではなく、感謝の挨拶である。昔は、両親も除夜の鐘を聞きながら近所の氏神様に参拝に行っていたが、さすがにもう行く体力もない。それはそれで仕方がない。自分もそうなるかもしれないが、元気なうちは続けたいと思う。

 今年のキーワードとしては、「受身」とする事にした。ビジネスにおいてはマイナスな言葉であるが、あえてそうする事にした。受身とは柔道で一番初めに習う技術だという。それは投げられないためではなく、投げられても怪我をしない技術。「攻撃は最大の防御」とばかりに攻めるのも年齢的には難しくなってくる。流れに逆らうより、流れに沿いながら、流されるのではなく、巧みに目的地に向かうようにしたい。投げられても受身をきちんと取れれば、また起き上がって動ける。そんなしなやかさを持って今年一年を過ごしたいと思う。

 人はさまざまな考えを持っている。そしてそれは必ずしも自分の考えとは一致しない。不一致の中から対立が生まれ、ストレスが生まれる。しかし、そこで自分の考えを強引に押し通すのではなく、可能な限り受け入れ、受け入れながらも自分が傷つかないようにしなやかに受身を取りながら上手くやっていく。今年はそんな生き方を目指してみたいと思うのである・・・

TumisuによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  


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