2023年1月12日木曜日

義母の葬儀

 昨年末、義母が亡くなった。風呂場での突然死であった。いわゆるヒートショックというものらしい。病気などで入退院を繰り返していたのであれば、それなりに心の準備というものもできるのであろうが、突然死なのでそんな準備などない。娘と旅行に行っていた妻は大慌てで実家に帰ったが、そばに居なかったので妻の直接の様子を窺うことはできず、その心境は推察するしかなかった。悲しむよりも葬儀の準備などの方が大変だったのかもしれない。

 葬儀は昨今のコロナ禍の影響というわけではないが、身内だけの家族葬。齢83歳。まだまだ若いと言えば若いが、親しい人は皆高齢者。そんな背景も家族葬にはあったのかもしれない。ところは家族葬向けの小さなホール。曹洞宗の流儀に従った葬儀が行われた。自分の直接の血縁というわけではない気持ちのゆとりからか、葬儀の進行を眺めながらつらつらと考える。ふと気づくと焼香は2回。3回と思っていたから戸惑うも、調べてみると曹洞宗は2回らしい。面白いと言うか、ややこしい。

 そもそも何で仏教式なのか。妻の家系の宗派は曹洞宗なのであるが、信者というわけではない。今の時代、檀家に入っているというわけでもない。たまたま祖父母の代が曹洞宗だったというだけである。その理屈から行くと、我が家は浄土真宗になるようだが、もちろん、普段は付き合いなどない。死んだ時に子供がやり取りをして手配をするのだろう。だが、そうする必要があるのだろうか。

 そもそもなぜ信者でもないのに仏教式でお経をあげてもらうのか。突き詰めて考えると、「それ以外の方法を知らないから」となる。仏教式でやらないとなると、「ではどうするの?」となる。喪服着て参列し、坊さんのお経を「早く終わらないかな」などと思いながら聞き流し、焼香をして手をあわせる。そうすると、何だかきちんと見送ったような気持ちになる。もしも仏教式を否定したら、途端に途方に暮れるだろう。だが、それもまた面白いのではないかと思う。自分の葬儀は是非そうするように遺言を残したいと思う。

 義母には六文字の戒名が授けられる。戒名はあの世でお釈迦様に弟子入りする名前だそうだが、何と現世では値段で文字数が変わってくる。お釈迦様の前では皆平等ではなかったのかと思うも、どうやらそうではない。文字数が少ないとあの世で肩身が狭いのであろうか。ならばそんな戒名などより親に愛情を込めてつけてもらった名前の方が、見知らぬ坊主に金でつけてもらった名前よりいいように思う。自分は、自分の名前をあの世にも持って行こうと思う。

 通夜の晩は、夜通し線香を絶やさないようにするものだが、なぜそうなのかと言えば、おそらくの推測であるが、死臭隠しだったように思う。一晩絶やさないことが死者への弔いのように言われるが、そもそもは朝起きて死臭が漂っていると不快な気分になるし、それは死者への冒涜になるようにも思えるし、それで一晩中線香を絶やさないようにしたのではないかと推測してみる。だが、今は蚊取り線香のようなぐるぐる巻きの線香を利用していて、ほっといても12時間くらい持つそうである。何ともである。そして翌日の告別式には、同時に初七日の法要が行われる。昔は文字通り七日目に行っていたと思うが、現代は時短・効率化である。

 そして一同は火葬場へと移動する。焼くのは1時間ちょっとくらいらしいが、熱を冷ましたりする時間を見て、2時間から2時間半くらい取るのだと、詳しいハイヤーのおっちゃんが教えてくれる。焼却炉が古い隣の街だともっとかかるのだとか。そして、待ち時間の間に昼食を取り、再び火葬場に行き、お骨を拾う。驚いたことに、骨壷が手のひらサイズである。まさか砕いて粉末状にするのではあるまいと思って見ていたら、何と足から各パーツのひと骨だけを集め、最後は頭蓋骨の一部で蓋をして終わり。その手のひらサイズの骨壷で納骨するとのこと。

 実は、納骨先のお寺ではもう「先客」で一杯らしく、これ以上は受け入れられないのだとか。残りの一式は火葬場の一角に納められるらしいが、他の方と一緒くたにされてしまうようである。言葉は恭しいが、ごっちゃ混ぜになるようである。これも時代なのだろうと思うが、どうなんだろうと思う。もっとも大事なのは弔う心。仏教であろうが何であろうが、骨壷に一部しか入れられなかろうが、全部であろうが死者には何もわからない。生きてそれを見送る者の心こそがすべてだろうと思う。

 思えば妻との最初のデートでサンドイッチを作ってくれた義母。結婚した後は、行けば何かともてなしてくれた。一緒に義理の祖母を見送ってからそれほど日も経っていないように思うが、いつの間にか見送る日が来てしまった。事情があって8年ほど会っていなかったが、それを残念に思う。棺の中の義母は、どこかよその知らない人のように思えた。妻と結婚しなければ知り合うことすらなかったはずの人である。今はもう記憶の中にしかいない。だからこそ、形式よりも心が大事だと思う。戒名やお経ごときでお寺にいたずらに寄付するくらいなら、集まってくれた人にちょっと豪華な食事でもしてもらって楽しんだ方がずっといいと思う。

 義母のように突然死ぬのか、それとも祖父のように病院のベッドなのか。いずれにしても、親の葬儀を前もって準備できる子供はいないと思う。それゆえに今から自分の葬儀については、へそ曲がりの本領を発揮して、いろいろと考えておきたいと思うのである・・・

 

Carolyn BoothによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 




0 件のコメント:

コメントを投稿