2019年12月8日日曜日

熱海

両親を連れて熱海へ行ってきた。腰の悪い母親は、温泉に入ると腰の調子が楽になると日頃からつぶやいているので、夏に引き続き連れて行ったと言う次第である。と言っても、あまり遠出はしたくないと言うリクエストもつき、ならば東京周辺で気軽に(日帰りでも)行ける熱海に白羽の矢を立てたのである。熱海といえば、かつては新婚旅行のメッカという時代があったとかすかに記憶に残っている。今ではすっかり昔の話である。

実際、熱海は近い。東京からだと新幹線で40分ほど。東海道線の快速アクティーでも1時間半ほどである。ただ、今回は実家から車でであった。車の場合、距離的な問題の他に渋滞という問題もある。行きは第三京浜から横浜新道を抜けるルートであったが、やっぱり渋滞があって、カーナビでは2時間ほどと表示されていたが、実際は3時間ちょっとかかってしまった。

熱海は実は過去にももう何度も行っている。と言っても、正確にいえば「通過している」という言い方が正しいかもしれない。市街を抜ける海岸沿いの国道はもうすっかりおなじみの風景である。途中には『金色夜叉』のお宮の松がある。『金色夜叉』と言っても読んだこともないし、特に何か感慨深いものがあるものではない。しかし、熱海海岸での別れのシーンがこうして皆の記憶に残っているということは、当時としてはかなりインパクトのある内容だったのであろう。

ふと思いついて両親に新婚旅行のことを聞いてみた。両親は『三丁目の夕陽』の時代である昭和34年にそれぞれ22歳同士で結婚している。当時、やはり熱海は新婚旅行のメッカであったらしいが、両親は伊豆と今井浜とで2泊しているらしい。母によれば、「私は天邪鬼だったから」熱海にしなかったという。私の天の邪鬼は母親から来ているのかもしれない。親父の怪しげな記憶では伊豆は「伊豆山」だったと言うが、伊豆山は熱海なので、記憶違いの可能性が高い。ちなみに今回泊まったのはその伊豆山である。

当時は熱海までは鉄道だったが、そこからは砂利道をバスだったと言う。当時はまだ行くだけでも大変だったのだろう。新婚旅行となればそれだけでのぼせ上がっているだろうから、道中も苦ではなかったかもしれない。もう60年の前の話であるし、市街の様子も変わっているだろうし、まだ「遠かった」時代の熱海はどんな様子だったのか興味深いところがある。私の場合、新婚旅行は「天国に一番近い島」ニューカレドニアであったことを考えると、いい時代に生まれたと強く思う。

母は、温泉の常であるが、ホテルに着いた直後にまず湯に入り、夕食後の寝る前に一度、そして朝起きてすぐと三度湯に入る。今回もたっぷりその通りに温泉を堪能。それに対し、父は一度のみ。そして私は母に習い三度温泉に浸かった。夕食・朝食ともにバイキング。母は普段とは見違えるような食欲を見せる。腰の痛みも消えたと喜び、わざわざ温泉に誘った甲斐があったと私も嬉しく思う。

「温泉だけ入れればそれだけでいい」と言っていた母も、翌日せっかく天気もいいしと言うことで、箱根を回って帰ることにした。寄ったのは箱根の関所。ここでは当時の関所が再現され、資料館もある。関所破りで死罪になった記録もあり、移動が制限されていた時代の不自由を感じる。熱心に見ていた父は、ポツリと「自由でいい時代に生まれてよかった」と呟く。ニューカレドニアでなくても、伊豆への二泊三日の旅行でも昭和の時代だから行けたとも言える。何を基準にするかで、人の幸福度も変わってくる。

 今は熱海に新婚旅行などと言うと、「何か事情があるのだろうか」と勘ぐられてしまいそうだが、60年前はまだそれが幸せな時代であったわけである。日本もまだまだ広かった時代。それに対し、今は熱海はちょっと気軽に温泉に入りに行けるところになっている。そんな時代だからこそ、また気軽に両親、特に母を温泉に連れて来てあげたいと思う。それが「いい時代」に生まれた特権である。「いい時代」を堪能したいし、してもらいたいと改めて思うのである・・・




【今週の読書】
  




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