2019年7月20日土曜日

論語雑感 里仁第四(その1)



〔 原文 〕
子曰。里仁爲美。擇不處仁。焉得知。
〔 読み下し 〕
()()わく、()(じん)なるを()しと()す。(えら)んで(じん)()らずんば、(いずく)んぞ()なるを()ん。
【訳】
隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない
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 論語において、「仁」は重要な概念である。その「仁」であるが、住むところ(ご近所)には必要であるということであり、そういう地域、近所を選んで住みなさいということである。「仁」とは、「人を思いやる気持ち」という意味であると説明されることがあるが、まぁそういう人たちが近所に住んでいるところであれば喜んで住みたいと誰もが思うだろう。

 さて、我が身を振り返ってみると、どうであろうか。今は練馬区に住んでいるが、ここに住もうと思ったのは、「仁」なるところであるからというわけではもちろんない。そもそもそういう観点で住むところを選んでいる人がどれだけいるかと言われれば、そんなにいないだろう。近所に住んでいる人たちがどんな人かなんて、住んでみなければわからない話である。せいぜい、家族や友人知人が住んでいて、勧められて引っ越すようなケースが当てはまるかもしれない程度だろう。

 私の場合、結婚を機にそれまで住んでいた千葉から練馬区に引っ越してきたのであるが、ここを選んだのは、「23区内かつなるべく郊外」という視点から探した結果であった。それまで行き来する機会があり、なんとなくこの沿線がいいなと思っていたこともあり、最初は隣の駅で探したのである。ところがこれといったものが見つからず、不動産屋の薦めるまま今の最寄り駅まで足を延ばしていくつか見に行ったところ、いいマンションを見つけたというわけである。

 それから9年間の借家暮らしを経て、そろそろ家を買おうかという時に、近所で7区画の土地の売り出しがあり、残っていた最後の1区画を買って家を建てた次第である。もちろん、その時は7区画の土地はすべて更地であり、当然どんな人が住んでいるかなどわからない。逆に言えば、その時の7軒はすべて「同期」入居という関係であり、今もその7軒で町内会の同じ班を形成している。

 7軒ともみんな家族構成は子供も含めて同じような年代。まぁ家を買おうというタイミングとしてはみんな同じようになるからかもしれない。みんな一斉に住み始めたので、変な習慣等もなく、その点では特段、変な気を使うこともなくまずまず問題のないご近所関係を築いている。既に出来上がっているご近所関係に後から参入するような場合では何かと気を使うかもしれないが、そういうのがないのが良いかもしれない。

 そんな近所関係が「仁」なるかと問われれば、まぁそれに近いものがあると言っていいだろう。男はどうしても仕事で日中いないので、奥様同士に比べたら「あいさつ程度の付き合い」なのかもしれない。ただ、何かあれば気軽に話ができるし、これまで近所付き合いで悩まされた経験はなく、住み心地の良いご近所さんと言える。「親切気のないところに居所をえら」んだのではないが、結果良ければすべて良しなのかもしれない。

 考えてみれば近所で揉めるほど厄介なものはないだろう。なにせ四六時中顔を合わせるわけであり、逃げるわけにはいかない。私の知人も隣人と敷地の境界線を巡り、わずか数センチで争っているが、傍で愚痴を聞いていても「大変だな」と思う。こんなことでストレスを抱えたくはないとつくづく思うし、それに引き換え我が家のご近所関係は良好であり、孔子の言うことも実感できる。

 田舎のように濃密な人間関係も煩わしいし、かと言って都会のマンションのように隣人すらどんな人かわからない(まぁみんながみんなそうではないと思うが)というのも味気ない。適度に付き合いがあって、適度に距離があるのがいいのではないかと思う。我がご近所さんも親父同士はもうちょっと付き合いがあってもいい気がする。男同士であればどこかで飲み会でもと思わなくもないが、わざわざ幹事を買って出るのも面倒で頭の中だけに留めている。

 「里は仁なるをよしとする」という言葉は、そう考えてみると、やっぱり実にその通りだと思うのである・・・




【今週の読書】
 


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