2018年12月24日月曜日

論語雑感 八佾第三(その15)

〔 原文 〕
子入太廟。毎事問。或曰。孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟。毎事問。子聞之曰。是禮也。
〔 読み下し 〕
()(たい)(びょう)()りて、事毎(ことごと)()う。(ある)ひと()わく、(たれ)鄹人(すうひと)()を、(れい)()ると()うや。(たい)(びょう)()りて事毎(ことごと)()う。()(これ)()きて()わく、()(れい)なり。
【訳】
先師が大廟に入って祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。
「あの鄹(すう)の田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいいだしたことなのだ。大廟にはいって事ごとに質問しているではないか」
先師はこれをきかれて、いわれた。――
「慎重にきくのが礼なのだ」
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論語もこの「八佾第三」はなんとなく意味不明の言葉が多い気がする。それは時代と文化が大きく違うことに起因しているのかもしれない。だとすれば、それはそれで仕方のないことである。最も、ここで私は論語の解釈をするつもりはなく、ただただ読んで感じたことを記すだけなので、関係ないといえば関係ない。

鳴り物入り(「礼に通じている」)で役職を任された孔子だが、いちいち聞いてばかりなのを見て、周りの者が「なぁんだ、大したことないじゃん」と思われたということだろうが、「聞くことこそ」が「礼」だとここでは諭している。さて、ではなぜ孔子はいちいち聞いたのだろうか。その理由を考えてみると、「わからないから」か「確認したいから」のいずれかとなるだろうと思う。なぜなら、聞くには「知らないから聞く」か「知っているのに聞く」かいずれかであり、「知らないから聞く」のは当然として、「知っているのに聞く」のは「自らの知識あるいは相手の知識を確認したいから」に他ならないからである。

「知らないから聞く」のは当然であるが、実はこれは勇気のいることである。なぜなら、人は皆プライドというものがあり、「知らない」ことをどこか恥じる気持ちがあるものである。まったく門外漢で知らなくても恥ではないようなことなら別だが、少なくともここの孔子のように「知っているだろう」と思われていることなら尚更である。ここでは、知らなくてバカにされているわけであるから、そんな中で自らの無知を暴露する行為である「聞く」ことを躊躇せずにやっているスタンスは素晴らしいと言える。きっとソクラテスも感心するだろう。

一方、「知っているのに聞く」のなら、そこには慎重な性格が窺える。それが「自らの知識を確認したいから」であるなら、鄹(すう)の田舎から出てきていることを鑑み、大廊の祭典にあたり自らの知識を過信することなく、確認を取っているわけである。そこから感じられるのは、謙虚さと実直さであろうか。また、「相手の知識を確認したいから」であるなら、そこには一段高い視線が感じられる。

相手がどのくらいの知識を持っているのか、確認することはどのくらいその相手を信頼できるのかという尺度になる。答えがしっかりしていれば、その相手は相当の知識を持っているのだとわかるわけで、以後その相手に対しては深い信頼を置いて仕事ができることになる。逆に知識があやふやだったり、頼りないところがあるなら全幅の信頼を置くのはリスキーである。特に責任者として新しい職場に着任した際、自分の部下となる者がどれだけしっかりしているかを掌握することは重要なことだと考えればわかりやすい。質問は相手のレベルを図る最も確実な方法である。

どのケースを取ったとしても、新たな職場に来て質問を重ねる人物を批判するのは適切とは言えない。批判するどころか褒められた人物だと言える。さすが孔子様である。ただ、それが礼だというのはどういう理屈なのかがわからない。「礼」という単語のイメージにも引きずられるところがあると思うが、どのケースにおいても「礼」とは結びつかないような気がしてならない。まぁあまり礼とは関係なく考えたいところである。

 いずれにせよ、知ったかぶりとはいかなくとも、「何となくわかっている気」でスルーしてしまうところが自分にはかなりある。これからそんな自分に気がついたら、きちんと質問して確認しないといけないと改めて思う。自戒としたい言葉である・・・




【今週の読書】
 
   
   


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