2018年12月7日金曜日

論語雑感 八佾第三(その14)

〔 原文 〕
子曰。周監於二代。郁郁乎文哉。吾從周。

〔 読み下し 〕
()()わく、(しゅう)()(だい)(かんが)みて、郁郁(いくいく)として(ぶん)なるかな。(われ)(しゅう)(したが)わん。
【訳】
周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。
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 論語に収められているのは、すべて教訓じみた話ばかりというわけではなく、場合によっては意味の分からない言葉もある。今回のこの言葉もまさにそれであり、まったくわからない。周の文化が良いと言っているのはわかるが、夏殷二代にわたる国のどんな諸制度をどんなふうに受け継いで、どんな文化を築き上げたのかがまったくわからない。たぶん、わかる人などいないのであろう。
 
 調べてみると、孔子の生きていた春秋時代は、周が東西に分裂してさらに群雄割拠となった時代である。この言葉の意図するところも、当時身の回りにあった周の文化を支持しているのか、それとも混乱の中で失われた文化を懐かしんでのものかもわからない。わかるのは、ただ孔子が周の文化を支持しているということだけである。
 
 しかし、そもそもであるが、文化とは何かという問題もある。改めて説明を求められると実は難しい。風俗習慣の類だろうかと何となく思う。となると、大抵その中にどっぷりと浸かって生きていると、それが「普通」となるから、なかなか否定しにくいものがあるかもしれない。例えばお隣の国では、悪人は死んでも悪人であり、墓を暴いて骨を粉々にしたって構わないそうだが、我が国は死ねばノーサイドで、死者の墓を暴くなんてたとえ悪人でも躊躇われるところである。

 どちらが良いかと聞かれれば、それは自分たちが慣れ親しんだ価値観に合致した方を選択するだろう。入れ墨を入れるのは主に反社会勢力の人たちであり、だから公共のプールや温泉は「入れ墨」禁止としているのである。しかし、マオリ族の人は入れ墨が反社会勢力の象徴とは考えない。宗教上の理由で牛や豚を食べず、アルコールも飲めないのは耐えられないと思うし、お正月には初詣に行き、12月にはクリスマスを祝うのに抵抗感がない。こういう文化に違和感を持たず、したがって否定もしない。よほどの変わり者でない限り、自分の文化を支持するのではないだろうかと思う。
 
 今の我が国の文化の中で気に入らないことはなんだろうかと考えてみる。それは個人個人の好みによって異なるかもしれないが、私個人からすれば「みんな一緒」という「平等思想」かもしれない。と言ってもこれは難しいところで、「列に順番に並ぶ」といういい面もあるが、「人と違う」ことを排除しようとする悪しき面もある。「隣の人と同じ」というのは、確かに安心かもしれないが、道を外れることに対する抵抗感は大きい。「人を押し退けてでも早い者勝ち」という文化には嫌悪感を覚えるが、みんな同じリクルートスーツで会社訪問する文化もいかがなものかと思うのである。
 
 しかしながら、総じて私も我が国の文化は心地よいと思う。嫌なところ、疑問に思うところはさり気なくかわしていけばいいだけである。子供達が楽しそうなクリスマスを祝い、一週間もすれば一転して神社に初詣に行き、年賀状のやり取りを楽しむ。春には花見をし、みんなが一斉に休むお盆休みには積極的に働き、人が働いている時に休む。秋は味覚とラグビーの季節。そんな文化が心地良い。
 
 孔子ならずとも、我は日本に従わんと思うのである・・・




【本日の読書】
 
   
   
   

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