2018年11月28日水曜日

カルロス・ゴーンの逮捕に思う

日産自動車のCEOカルロス・ゴーンの逮捕はなかなか衝撃的であった。一時はV字回復の立役者とされ、日本人では決してできない業績回復をやってのけたということで、企業の業績回復の代名詞的存在だったからである。さらに逮捕容疑は「有価証券報告書虚偽記載罪」で、ただでさえ年間10億円の巨額報酬を得ていたと思っていたら、もっと多かったと知って驚くばかりである。

マスコミの報道を例によってそれほど熱心に見ているわけではないが、海外数か国で豪邸を日産に購入させて無償で使っていたとか、巨額報酬ばかりでなくその「私物化」振りも酷いものだと思う。ただ、海外の報道と国内のそれとの温度差やカルロス・ゴーンの行為とされることに、何となく我々日本人と欧米人との文化というかメンタリティの違いのようなものを感じるのも確かである。日本人的には許しがたく感じるが、欧米人的にはそうではないのかもしれない。

そもそもであるが、容疑の「有価証券報告書虚偽記載」と言っても、「巨額の報酬をもらってはいけない」というものではない。「もらったものを記載しないといけない」というものである。そのあたり微妙である。日本人には「巨額の報酬」はあまりいいイメージを残さない。かつて落合博満が日本人で初の1億円プレーヤーになった時も、球団に対して巨額の報酬を要求する姿勢が批判的に報じられたものである。今でもプロ野球では、日本人と外国人助っ人との間には、年俸に大きな開きがあるのもそういう下地があるからだと思う。

海外の豪邸を会社に買わせて無償で使用していたのだって、世の中そんな例はいくらでもある。中小企業でも、社長が会社名義で軽井沢あたりに別荘を買って自分で使用しているなんてよくあることだろう。そしてそれに対して誰も違和感を抱かないだろうし、社員だって文句は言わないだろう。ただ、金額が大きくなると、口には出さなくても心理的抵抗感は大きくなるかもしれない。それにしても、ご本人は一体いくらもらっていたんだろうと思うと興味深い。

報道によれば、2011年から5年間で実際には999,800万円の報酬を得ていたのに、498,700万円と記載していたとか。5年間で100億円だとすると、CEOに就任してから20年なので、単純にその4倍とはいかないかもしれないが、どちらにしても桁外れである。当然、税金はがっぽりと取られるだろうが、半分としてもすごい金額なわけで、そんなお金あっても使い切れるものでもない。墓場まで持っていけるわけではないのにと思ってしまう。

自分だったら、そんな夢のようなお金を手にしたら何に使うだろうと考えてみる。「まずは住宅ローンを完済して・・・」なんて考えている時点で小市民だなぁと自分でも思ってしまう。実際に手にしてみないとわからないが、ある程度自分の分を確保したら、世のため人のために使いたいと思う。何もきれい事を言うつもりはないが、お金に満足したら次は「名誉欲」を満たしたいと思うし、そんな風にお金を使う姿を見れば親も喜ぶのではないかと思うのである。息子を誇りに思ってもらえるなら、使いきれずに眺めているより、親孝行だと思って使ってしまいたいと思うのである(嘘だと思ったら試してもらってもいい)。

そもそもであるが、欧米はローマ帝国の時代から絶対王政の社会が長かった。絶対権力者が、「朕は国家なり」(太陽王ルイ14世)で好き放題にしてきた歴史がある。それに対し、我が国は万世一系の皇室が存在していたと言っても絶対君主制ではなかった。それどころか、「和をもって貴しとなす」精神が根底にあって、武家政権であっても戦国時代を除いては「良きにはからえ」の社会であったわけで、そんなところが「独り占め」に対する抵抗感の土壌となっているのかもしれない。そんな文化の違いもあるかもしれない。

カルロス・ゴーンの逮捕につながった内部告発が、表には出てこない日産とルノーとの関係を巡る水面下のバトルなのか、単なる一社員による義憤なのかはよくわからない。そんなこと知りようもないし、どうでもいいことだと思うが、市民革命に倒されたルイ16世のように、我が国で巨額の報酬を得るカルロス・ゴーンが絶対政権を追われたのも必然だったのかもしれない。

 いずれにせよ、自分には遠い世界の出来事。家族を支え、未だまだ結構残っている住宅ローンをチビチビ返済するため、子供の教育資金を稼ぐために、明日も楽しく仕事をしようと思うのである・・・




【本日の読書】
 寝ながら学べる構造主義 (文春新書) - 内田 樹 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄






2018年11月25日日曜日

コツコツと積もり積もって1,027時間

転職以来、ちょうど4年。この4年間を振り返ってみると、コツコツと勉強の日々であった。初めの2年間は「宅建」。そしてこの2年間は「マンション管理士」である。宅建は、まぁ不動産業界に身を置く以上はタクシー運転手の運転免許みたいなものだと思うから当然として、「マンション管理士」は「イメージづくり」とも言える。使える資格でもない割りには、合格率8%の狭き門の資格である。

取ろうと思ったのは自分の意思であり、名刺の肩書にしかならない意味のない資格であるが、その名刺の肩書きが相手に対して一目置かせることにもなるかと思っての受験である。ちなみに、ほぼ内容が同じ「業務管理主任者」は合格率20%超である。なぜかと理由を想像してみると、おそらく合格率8%なんてしたらマンション管理会社が商売できなくなるからだろうと思う。つくづく、つまらない資格である。

そんなつまらない資格でも、取ると決めたら取らねばならない。「批判は受かってから」が信条の自分としては、受かってから文句を言ってやろうと思う。そんな狭き門の資格を前に、難敵は他でもない自分自身。難関国立大学を卒業したかつての「受験戦争の勝者」も年齢による記憶力の低下にはなすすべもなく、宅建もマンション管理士も思いがけぬ苦戦。宅建は2回目でクリアしたが、マンション管理士はどうであろうか。

私の勉強スタイルは、学生時代から変わらぬ「コツコツ型」。10時間の勉強が必要だとすると、前の晩に徹夜で10時間勉強するのではなく、10日前から毎日1時間ずつ勉強するタイプである。自分では、同じコツコツ型の親父の血を引いたのだと思っているが、我が娘は「徹夜型」であり、どうやら我が家系の血は引いていないのかと思ってみたりする。それはともかくとして、受験を決めた時から、「11時間、1週間で10時間(土日5時間)」を自らノルマとして課してやってきたのである。

いつからかこの「コツコツ型」になったのかはわからないが、昔から「1日1歩」が性に合っているのである。一気にやるのが嫌だというのもあるだろう。徹夜なんて今でもとんでもないと思っている。その一歩一歩の積み重ねの結果、1年目に費やした勉強時間は496時間であり、今回は531時間である。大事なのは「量より質」であるが、質を確保したらあとは量であり、量も大事な要因である。特に、「覚えては忘れ、忘れては覚える」という状態にあっては、量の要因は大きい。

昔であれば、500時間勉強すれば、400時間分くらいは身についていたと思うが、今はイメージとして250時間くらいである。テキストの前の方を見直すと、引いた覚えのないマーカーが引いてあって驚くことしばしば。その都度、「新たな発見」をしている。80を超える親父は同じ小説を何度も「読んだことがない」と思って読んでいるみたいだが、何度も楽しめる小説や映画ならともかく、資格試験ではシャレにならない。かつての栄光はかなぐり捨て、必死に忘れたものを覚え直す日々である。

今一つの信念は、「一点集中」である。アリの穴から堤も崩れるではないが、小さな力も一点に集中すれば大きな威力を持つという考えから、「マンション管理士」以外の勉強はしていない。実は先週、会社のみんなで「賃貸経営管理士」の試験を受験したのだが、こちらの方は応用が効くかもしれないと考えての受験で、そのための勉強は1秒たりともしていない。大学も1年目は志望校一校しか受けなかったし、2年目はさすがに滑り止めを受けたが、そのための(私大向け)勉強はしなかった。記憶力が情けない状態になっているのであれば、なおさらである。

そんな勉強の日々も本番を終え、あとは試験の結果待ち。結果はわからないが、正直言ってもう疲れてしまったのは確かである。記憶力とともに、加齢は耐久力も奪うものなのかもしれない。負けたら「もう1回」という気力が残っているかは怪しい。合格してればいいが、不合格の場合、再起動は厳しいかもしれないと感じている。果報は寝て待てとはいうが、「立って待つ気力がない」というのが正直なところである。コツコツと積み上げてきた1,027時間が結果となって現れるか。

 気力を使い果たした後でもあり、もう次の力があるかどうかわからないだけに、いい結果を期待したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 大山健太郎: アイリスオーヤマの経営理念 - 大山 健太郎 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄 日本一小さな航空会社の大きな奇跡の物語―――業界の常識を破った天草エアラインの「復活」 - 奥島 透





2018年11月21日水曜日

論語雑感 八佾第三(その13)


 原文  
王孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。子曰、不然。獲罪於天、
無所祷也。
〔 読み下し 〕
王孫(おうそん)()()うて()わく、()(おう)()びんよりは、(むし)(そう)()びよとは、(なん)()いぞや。()(のたま)わく、(しか)らず。(つみ)(てん)()れば、(いの)(ところ)()きなり。
【訳】
衛の王孫賈が先師にたずねた。
「奥の神様にこびるよりは、むしろ竈の神様にこびよ、ということわざがございますが、どうお考えになりますか」
先師がこたえられた。
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心がけることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ」
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論語も人によって微妙に解釈やニュアンスが異なる。中国の、それも2,500年も前の言葉だからいろいろと言葉も変わるだろうし、本当の意味がどうなのかはわからないのかもしれない。ここでは「罪を天に得る」と解釈しているが(それもわかるようなわからないような解釈だ)、別の解釈では奥の神様を王(皇帝)とし、竈の神を陪臣として、名目上の実権者(王)よりも実質上の実権者(陪臣)に媚びを売るとしているものもある。どちらが正しいと言えるほど知識もないので好きなように考えるとする。

いずれの解釈に対しても、王孫賈の問いかけに対し、孔子は「そんなこと考える必要もない」と答えている。それはそうだろうと思う。神様なのか、陪臣なのかはともかくとして、「どちらがいいのか」と選択する時、そこには「計算」が潜んでいる。「どちらの神様の方が願いを叶えてくれるのか(奥に鎮座する偉い神様か食事を司る現実的な神様か)」、「名目上と実質上とどちらの実権者についた方が得なのか」、計算とも打算とも言えるが、その根底にあるのは損得勘定である。

質問した王孫賈も、ひょっとしたら「どっちにつくか」で迷っていたのかもしれない。よく企業ドラマなどで、「専務派」と「常務派」に分かれて権力闘争をし、敗れた方が一掃されるというようなことをやっていたりする。子分にとっては、どっちにつくかが死活問題なのであるが、幸いにしてそんな子分の立場の悩みを味わうこともなくこれまでやってこれたが、世の中的にはそういうのも結構あるのだろうかと思ってみたりする。政治家の派閥なんかでは今でもありそうな気がする。

 もしも自分が子分の立場だったらどうするだろうと考えてみる。個人的にそういう考え方は好きではないから、「専務派」にも「常務派」にも組しないと思う。そういう考え方自体、否定したいと思うクチである。まぁ、そういう議論をすれば誰でもそうかもしれない。そして実際、そういうケースでどちらかを選ぶ人というのは、「選ばざるを得ない」状況に置かれているのかもしれない。では、選ばざるを得ない立場になったら自分はどうするだろう。

もしも選ばなければならないとすれば、その基準は「人柄」だろうか。どちらについた方が将来的にメリットがあるだろうかとか、本当の打算的な基準では選びたくないと思う。なぜなら打算で選んだ場合、どちらにつくにせよ、それが「ハズレくじ」であった場合には、あとには後悔しか残らないからである。ところが「人柄」で選んだ場合なら、「ハズレくじ」でも「まぁいいや」と思えるだろう。そういえば自分も就職の時、万が一会社が潰れたとしても誘ってくれた先輩と一緒ならいいや思ったし、転職の時もこの社長と一緒ならもしも潰れてもいいやと思って決断したものである。

逆に自分がボス猿の立場だったらどうだろうかと考えてみると、やはりライバルに打ち勝った後は、自分についてきた者を優遇しようと自然に思うだろう。ライバルを支持していた者たちに恨みは持たないと思うが、どちらかを昇進させるか選べる立場となった時はやっぱり自分の派閥から選ぶと思う。そう考えれば、子分たちがどちらにつくかで必死になるのも分かる気がする。

ただ一方でもしも中立を守った者がいたらとしたら、自分なら敢えて彼(彼女)を選ぶかもしれない。もしかしたら普通の人は選ばないかもしれないが、自分としてはそういう反骨精神を持っている者は基本的に好きである。何れにしても、理想論はともかく、人は奥の神様か竈の神様かと悩むものなのかもしれない。悩むのは良いと思うが、自分としては一度これと決めたら腹を括って信じ切り、ハズレたらサバサバと諦めるのが潔くていいように思う。そういう確固とした信念を持っていたいと思うのである。

打算など打ち捨て、自分の揺るぎない信念でこの人と選び、選んだら何があっても動じず迷わず行く。かくありたいと思うのである・・・ 


                     


【本日の読書】
 大山健太郎: アイリスオーヤマの経営理念 - 大山 健太郎 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄





2018年11月14日水曜日

日大悪質タックル事件に思うこと(その2)

日大・内田前監督ら立件見送りへ 警視庁、危険タックル指示なしと判断

11/13() 5:00配信 産経新聞
 日本大アメリカンフットボール部の悪質反則問題で、警視庁が、傷害罪で刑事告訴されていた日大の内田正人前監督と井上奨(つとむ)前コーチについて、宮川泰介選手に対し相手を負傷させる危険なタックルをするよう指示した事実は認められないと判断したことが12日、関係者への取材で分かった。警視庁は近く刑事告訴に基づき傷害容疑で2人を書類送検するが、東京地検立川支部は2人の立件を見送るとみられる。
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この問題、当初から私も関心を持っていたが、一応公的にはこれで決着がついたということなのだと思う。「立件見送り」は「裁判になっても有罪にできるだけの証拠がない」という意味で、「やっていない(悪質タックルの指示はしていない)」という意味ではない。真相は本人(監督)にしかわからないので、依然として藪の中である。

裁判の原則は、「疑わしきは罰せず」。黒であれば有罪だが、グレー(疑わしい)では有罪にはならない。グレーにも「限りなく黒に近いグレー」と「限りなく白に近いグレー」があるが、白であるかどうかは、本人の心の中がわからない以上わからない。今回警視庁は、「捜査1課の殺人事件担当や課内のアメフト経験者、競技場を管轄する調布署員らからなる特別捜査チームを編成。アメフト部の関係者や競技の専門家ら約200人から事情聴取したほか、試合を複数の角度から撮影した動画を解析。記者会見などでの関係者の発言についても裏付け捜査を行った。」とあるからかなり調べたようである。その結果、「限りなく白に近いグレー」と判断したというわけである。

監督本人の心の内はわからないから、限りなく状況証拠を集めるようとしたであろう。日頃の言動や試合当日のチーム内の雰囲気など、約200人もの人に話を聞けば事件の真相も浮かび上がってくるのではないかと思う。その結果、「潰せ」という監督の指示は、「ルール内で潰せ」という意味だったと判断されたのだと思う。学生時代からラグビーをやってきた身としては、その結論の方が納得できるものであり、しっくりとくる。ルールを越えた意図的な反則は、試合崩壊も覚悟しないと指示できないだろうし、そこまでやる意味があったとは思えない。その感覚は、ラグビーやアメフトをやったことのない人にはわからないのかもしれない。

それにしても、よくわからないのがタックルした選手本人の胸の内。聞けば日本代表候補にもなっている優秀な選手。そんな優秀な選手が、監督の指示の真意がわからなかったのかという疑問。私も若い頃は相手を怪我させてやろうと思ってプレーしたこともあるが、一度として「ルールを越えてやってやろう」などと思ったことはない。たぶん、それはすべてのプレーヤーに共通した感覚だと思う。相手から文句を言われたとしても、「プレーの中でなら」自分を正当化できるし、そもそも相手も文句をぐっとこらえるだろう。そういうものだと思っていたので、安易にルールを越えてしまったその思考回路が理解できないのである。今の若者ってそれほど理解力が衰えているのだろうかと思ってしまう。

それにしても、事件当時のマスコミ報道で、監督はすっかり悪人扱い。冒頭のニュースを見ても、「裏で圧力をかけたのではないか」とか、証拠が出てこなかっただけ(「限りなく黒に近いグレー」)というイメージを語る人が私の周りにもいた。たかだか日大のアメフトの監督が警視庁に手など回せるはずもなく、やっぱりこれらはマスコミ報道の悪影響だと思う。別にこの監督と知り合いでも何でもないから肩を持つつもりなどないが、やっぱりマスコミ報道って酷いなと改めて思う。

事実、いつ自分がこうした「悪質報道」の犠牲者になるかわからないわけである。一旦、「黒」と判断されたら(あるいはその方がネタになると判断されたら)、それに沿って報道されるわけである。今回も監督を支持する人たちが実はいたようであるが、そんな声はほとんど聞こえてこなかった。弁明しても言い訳としか解釈されないだろうし、説明すればするほど泥沼にハマる気がする。今に始まったことではないが、まったく恐ろしいことである。

マスコミには、両サイドからの報道が望ましいと思う。すなわち、選手側からの報道と監督側からの報道である。そうすれば、見ている方も公平に判断できるだろう。だが、今のマスコミを見ていると、そんなことは欠片も期待できそうもない。コメンテーターもみんな右へ倣えだ。せめて自分だけは冷静に判断できるようにしたいと思うが、その場合は「悪役側」に立って見ることが必要であろう。悪役側から見て言い訳の余地がなければ、本当に悪役なわけで、言い訳の余地があるならその可能性も考えて批判のブレーキを踏む必要があるだろう。

今の日本の「集団としては無能なマスコミ」に多くは期待できないから、せめて自分だけでもそういう冷静な目を持っていたいと思わされた一件である・・・




【本日の読書】
 逃げる力 (PHP新書) - 百田 尚樹 史上最強の哲学入門 - 飲茶




2018年11月12日月曜日

静かなるリーダーシップ

ネットの記事で、『【なるほど、納得】的確に表した「ボスとリーダーの違い」に考えさせられる』というのを読んだ。なるほど、イメージ図を見るとリーダーとボスの違いが一目瞭然であり、うまく表現したものだと思わされる。これを読めば、だれでも自分ならリーダー・タイプになりたいと思うだろうし、リーダー・タイプの人の下で働きたいと思うだろう。実際はボス・タイプなのに自分はリーダー・タイプだと勘違いしている人も多いと思う。

しかしながら、世の中にはリーダー・タイプでもボス・タイプでもないタイプの人がいることも確かである。過去の銀行員時代にも、「この人よく昇進できたな」というタイプの上司はいた。どちらのタイプでもないタイプの上司である。部下を持ってもやたら威張るほど狭量ではないが、自ら先頭に立つほど自信もない。でも部下を持ってしまったから上司をやらないといけない・・・ご本人はそんなつもりなどないかもしれないが、そう見えてしまう「自信のないタイプ」とでもいうタイプである。こういうタイプの上司は、決断も遅いしはっきりとした考えもわからなくて部下も困惑してしまう。

そういうタイプの上司はどうしたらいいのだろうかと考えてみる。自分が先頭に立つのが無理なら、部下を先頭に立たせればいいだろう。つまり、こういうタイプは「人をうまく使う」に尽きる。そうすれば、苦手な「先頭に立つ」こともないし、権威主義のボスとして威張る必要もない。有望な部下を選んで、適度に励まして先頭に立って走ってもらえば良いわけである。それで上司としての権威が失墜するものでもないし、職務怠慢を問われることもない。上司は自分の課のパフォーマンスを結果として上げることが大事なのであり、自分で先頭に立つパフォーマンスは必ずしも必要がない。

さらにこの方法だと、同時に「部下の育成」もできることになる。人材育成の一番の方法は、OJTであり、責任ある仕事を任されることである。上司から期待されて先頭に立つことを覚えれば、それは次世代のリーダー育成にも繋がるし、人材育成の実績として、自分の成績にもなる。「自信のないタイプ」を自覚しているなら、こうした方法が適していると思う。

さらにこの時、注意しないといけないのは、「任せっぱなし」にしないことだ。仕事を任されたのはいいが、上司が無関心だといずれ当人のやる気も萎んでしまう。マズローの「欲求五段階説」を出すまでもなく、人間には「承認欲求」がある。自分の仕事を見ていてもらって、褒められればさらなる力を発揮するだろうが、無関心ではやがて意欲も消失する。折に触れて、進捗を尋ねたり、やり方に対する途中評価を適宜加えて、「いつもしっかり見ている」という印象を与えることが大切である。

実際、私もプロジェクトを任されたはいいが、上司はまったく無関心ということがあった。途中で「あれどうなった?」と一言でも聞かれればともかく、ひょっとしたら忘れてしまったのではないかと思う有様になったことがあった。こうなるとこちらのやる気も失せてくるというもの。やってもやらなくても同じなら、人間やらない方に流れるものではないかと思う。ちょっとでも関心を示していれば、ある種の緊張感も持続して継続することができると思うのである。

リーダーシップのタイプはリーダー・タイプとボス・タイプの2種類ということはないだろう。無理にどちらかと考える事にあまり意味はない。ただ、どちらにせよ楽していていいことはないのは事実。体を動かすか、脳みそをフル稼働させるか。自分に合ったやり方で、かつ部下を手下ではなくチームメンバーとして考えるのが良いのではないかと思う。私だったら、部下に先頭を任せることを選ぶと思う(その方が楽だし・・・)。

ふと目にした記事からあれこれとそんなことを考えてみた次第である・・・




【本日の読書】
 できる人の人を動かす方法 The Rules of People Rulesシリーズ - リチャード・テンプラー 史上最強の哲学入門 - 飲茶




2018年11月3日土曜日

サプリメント

最近、ネット上の広告でサプリメントに関するものを多く目にするようになった。テレビのコマーシャルと同様、最近ではさまざまなネット広告を目にする。多種多様なネット広告でも、意識してみれば割とジャンルが固まっているような気がする。「保険」「クレジットカード」などとともに、「サプリメント」も数多いジャンルの一つである。そしてそんなサプリメントのネット広告が気になったのも、ちょっと意識しているからにほかならない。

最近は、毎週シニアラグビーに参加し、試合にも出るようになっている。当然、体力の衰えは否応なし意識させられるところであり、昔のようにとはいかないまでもある程度の体力をつける必要性を感じている。それには食べることが一番であるが、練習が週一回程度ではメタボまっしぐらの危険性もある。そこでそこそこの栄養補給となると、サプリメントがいいのだろうかと思い始めているのである。ところが、なかなかすんなりと手を出せない。

実は、私自身は大の「薬嫌い」である。なにせ「風邪は気合で治る」というポリシーを持つくらいなので、サプリメントは薬ではないとわかっていても、なんとなく得も言われぬ抵抗感を感じてしまうところがある。ちなみに昨日整形外科に行って薬を処方されたが、聞けばその成分はビタミン剤だということで納得して服用することにした。これがそうでなかったら、考えるところである。

以前、(滅多にないことだが)熱を出して内科の医者に行ったことがある。その時は子供も小さかったし、インフルエンザだとまずいと妻に言われて渋々出掛けて行ったのである(そうでなかったら行かなかったのは言うまでもない)。診察の結果、幸いなことにインフルエンザではなく、ただの風邪であった。その場でたくさんの薬を処方されたが、一粒も飲まなかった。ならもらわなければいいと思うところだが、熱もあったし、先生との不毛な議論も面倒だったので黙ってもらうだけもらってきたのである。私はそういう人間なのである。

そうは言っても、例外はある。その筆頭は「正露丸」である。これは過去の経験から効果てきめんなのを知っているという部分が大きい。やはり「効き目」ほど効果的なものはないと思う。そういう意味では、(薬ではないが)リップスティックとニベアはこれからの季節重宝している。リップスティックも効果抜群だし、ニベア(クリームを塗るタイプのものである)もかつて学生時代にラグビーの練習中腿のあたりが赤くなった時に、勧められて塗ったら効果てきめんであったことから、折に触れて愛用しているのである。

そんなわけだから、サプリメントも効果てきめんなら問題ないが、そうはいかない。サプリメントの類は、ほとんど効果など実感できないものであろろう。少し前まで実家から朝鮮人参をもらって飲んでいたが、こちらは効果があるのかないのかさっぱりであった。妻のダイエットの例を取るまでもなく、「暖簾に腕押し」ほど継続する心をくじくモノはない。ただ、考えてみれば毎日の食事だって効果が実感できるものではない。と言っても取らなければ死んでしまうわけで、また栄養の偏りも長い時間をかければ悪影響が表面化するわけで、サプリメントの効果も長い目でみなければならないのも理解できる。

それに加えて不安をあおるのは、ネットにしろテレビにしろ広告というものはどうも針小棒大の怖さがある。さらには、最近自動車メーカーや免震メーカーの検査数値偽造のニュースにもあるように、謳われた効果が本当にあるのかという疑問もある。「研究ではこれこれの効果が認められた」「〇〇の成分配合」「元気満々です!(あくまでも個人の感想です)」などと見せられても、部外者にはわからない。ごまかされていても効果がすぐに出ないこともあってわからないわけである。そうなると、やっぱり躊躇してしまうというのが本音のところである。

学生時代、公式戦の前などにリポビタンDをよく飲んだものである。試合中にバテたくなかったし、少しでもエネルギーになればと思ってのものであった。それがここ大一番の試合ではリポビタンDスーパーになったりした。今思えば気休め程度の効果だっただろうと笑ってしまうが、その「気休め効果」は抜群であった。サプリメントも「気休め効果」なら、即実感できるかもしれない。

まぁ、その現実的な効果の有無はともかく、もうしばらく様子見しつつ、せいぜい「食欲の秋」本番を迎え、しっかり食べてしっかり体を動かすという基本は実行していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業 (講談社現代新書) - 中原 圭介 オリジン 上 (角川文庫) - ダン・ブラウン, 越前 敏弥 史上最強の哲学入門 - 飲茶