2018年9月19日水曜日

論語雑感 八佾第三(その10)

 原文 
子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(てい)(すで)(かん)してより(のち)は、(われ)(これ)()ることを(ほっ)せず。
【訳】
孔子云う、「帝の祭は、潅の儀式(欝鬯・うつちょうの酒を地に注いで祖先の降霊を行なう儀式)が済めば、後は私は見る気がしない」と。
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論語に残されている孔子の言葉が、すべて何か教訓めいたものかというとそういうわけでもない。今となっては時代に合わなかったり、意味が良くわからなくなっているものも多い。今回のこの言葉もその一つ。何か皇帝の祭事のようなものがあって、その過程の一つを終えるともう見るべきところがないということのようである。私はといえば、割と何でも最後まで見る方なので孔子様とはちょっと違う(孔子様も最後まで見ないとまでは言っていないが・・・)。

たとえば映画を観に行った場合、映画が終わってエンドロールが流れ始めると席を立つ人たちがいるが、私はすべて終わって明るくなってから席を立つ方である。エンドロールなど眺めていたってなんの意味もないと言われればその通り。あえて言えば、「たった今観終えた映画の余韻に浸っている」ということだろう。もっとも、最近はマーベルの映画などでは、エンドロールの最後に次回作等につながるワンシーンが登場したりするからうっかり席を立つと損をする。そんな映画に当たったりすると、席を立ってしまった人たちにちょっと優越感を感じたりする(実に小市民的だ)。

また、野球場に行ったりすると、私はしっかり試合終了まで見届けるタイプである。時間があればヒーローインタビューなんかも見ていったりする。人によっては、例えば7回あたりに早々に席を立ってしまう人たちもいる。贔屓チームの敗色が濃厚で面白くないのか、もしかしたら次の日が早かったり家が遠かったり何か事情があるのかもしれない。試合終了後にみんな一斉に駅に殺到したりするから、それを避けたいのかもしれない。されど私は最後までしっかり見届ける派である。

そう考えてみれば、本を読めば大概読み切るし(途中でやめるのは本当に稀である)、なんでも最後までというのは性分なのかもしれない。そういう性分ではあるものの、では最後まで堪能しているのかと言えばそうでもなく、何となく席を立ちたいけど我慢しているというケースもある。その典型的なのは、コンサートと演劇(もっぱら劇団四季である)であろうか。これらは、どうしても最後のアンコールやカーテンコールにしっくりとこないものを感じるのである。

これこそ私がへそ曲がりのへそ曲がりたるゆえんかもしれないが、最初から用意してある「アンコール」というものに違和感を覚えるのである。そもそもアンコールとは、演奏に感激したお客さんの拍手が鳴りやまず、それに謝意を表したい演奏者が予定になかったもう一曲をサービスでやるというものであろう。いわば即興なわけで、初めから用意しておいて、「演奏予定のラスト曲」としてやるものではないと思うのである。

カーテンコールも本来はそうだろう。だが、これはファンの責任でもあるかもしれないが、大して感動したわけでもないのにやたらといつまでも拍手をやめない。それはパフォーマンスに感動したというよりも、むしろ「お約束」としてやっているようにしか思えない。それだから俳優たちも何度も何度も舞台に出て来ては同じようなお辞儀をして去って行く。早く帰りたいと思うのに、その長い時間はとてつもない苦痛である。せっかく、いいパフォーマンスだったと思っていても、最後の最後でケチがつく。

 そんなアンコールやカーテンコールは、私にとっては孔子のように「見る気がしない」モノであると言える。誰にとっても、そんなものの一つや二つはあるものなのだろう。そんなことを鑑みると、孔子の今回の言葉にも頷けるものがあると思うのである・・・





【本日の読書】
 
    


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