2018年2月1日木曜日

会社はだれのものか


先日、村上ファンドの代表村上世彰氏の著書『生涯投資家』を読んだ。インサイダー取引で逮捕されて以来、その動向は久しく聞かなかったが、当時の様子を振り返った内容はなかなか興味深いものであった。その中で、「会社はだれのものか」という問いに対し、氏は当然ながら「株主のもの」と答えていた。投資家という氏の立場からすれば、当然の答えであろう。そしてそれは教科書的にも正しい答えである。

 当時、村上ファンドに加えてライブドアのニッポン放送買収騒動等、「モノ言う投資家」の存在が世間の注目を浴びていた。その時にもこの問いがあちこちでなされ、それは今でもいろいろな意見が出ている。果たして会社は、株主のものか社長のものかそれとも従業員のものか。私個人の感覚としては、教科書的にはどうあれ、「(社長を含めて)そこで働く人のもの」という感覚であった。しかし、ここのところちょっとその考えが変わってきている。

 氏も先の著書の中で語っているが、株式公開は英語で“Going Public”と言うそうである。日本語よりもはるかに実態をよく表していると氏は評価する。そして今読んでいるNIKEのフィル・ナイトによる自伝SHOE DOGではその意味がよくわかる。事業の拡大にともない、フィル・ナイトは資金調達に苦悩する。そして行き着くところとして株式公開が検討されるが、その都度公開するか否かで悩むのである。その悩みは、「資金は欲しいが経営の自由は奪われたくない」というものである。株式公開すれば当然会社は「公器」となるわけで、場合によっては株主の意向に左右され、今までのように好き勝手はできなくなるかもしれないという事をよく認識しているのである。

 これが日本の場合だと、上場は一つのゴールであり「成功の証」というイメージがある。株主の意向によって左右される「公器」になるという感覚はそれほどでもないように思える。そして実はその感覚の違いこそが、「会社はだれのものか」という問いに対する認識の相違であるように思える。株式を公開して資金調達できるのも、お金を出す投資家がリターンを期待して出資するからであり、一定の利益を取ったら売り抜けられる(次に買う人がいる)と期待できるからである。だから企業家は、(事業に必要な)資金を手に入れられるのである。

「会社は従業員のもの」という意見には、「働く人が働いて利益を出さなければ株主も利益を得られないだろう」という考えもあるようだが、よくよく考えてみればそれは考え方が逆で、「利益を出すと期待できる(約束する)からお金を出す」のであって、そういう約束が先にある以上、「利益を出さなければ株主も困るだろう」という考えはおかしいのである。上場企業に入社する人は、あらかじめ「株主の利益のために働く」という約束をして入らなければならないという理屈である。

それが嫌なら株式を公開しなければいいわけで、あるいは非上場企業に入社すればいいわけである。株主から「利益を出せ」とか「株価を高くすることを考えろ」と言われるのも当然なわけで、村上ファンドのようなところが出てきても非難するのはおかしいわけである。もっとも上場来の、あるいは長く株主をやっている人からならともかく、ずる賢く株価が低く据え置かれているところを狙って入ってきたような株主を本当に重要視しなければならないとすれば、それには忸怩たるものがある。ただ、それは制度に伴って生じるリスクであって、考え方そのものが否定されるものではないのだろう。

やっぱりいろいろと考えると、「会社は株主のもの」というところが正解なのだと思うに至る。経営者も従業員も、「自分たちの会社」という意識は大事だと思うが、それと同時に「公器」であるという意識も大切だろう。働いている人、お金を出している人、いろいろな人が集まる「公器」であり、従業員は働いて給料をもらい、株主はお金を出して利益を得る。そこにはルールがあり、ルールに従って行動している限り文句は言えないわけであり、そしてなによりも最終的な意思決定は株主総会にあるのである。

村上ファンドの登場によって湧き上がってきた議論であるが、自分の中では考え方が整理され、一つの結論が出たことでスッキリしたと思うのである・・・





【本日の読書】
 
   

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