2017年9月27日水曜日

論語雑感 為政第二(その10)

 子曰。視其所以。觀其所由。察其所安。人焉廋哉。人焉廋哉。
()(いわ)く、()(もっ)てする(ところ)()()()(ところ)()()(やす)んずる(ところ)(さっ)すれば、(ひと)(いずく)んぞ(かく)さんや、(ひと)(いずく)んぞ(かく)さんや。
【訳】
先師がいわれた。人間の値打というものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどのへんにその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察してみると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない。
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論語は、長い年月にわたって読み続けられているが、その理由は内容がもっともであることがあるだろう。「それは変だ」と思うような内容だったとしたら、とても歴史の評価には耐えられない。今回の言葉もそれは同様で、「その通りである」ことに異論はない。人というのは、口先で偉そうなことを言っていても、言動にその人の本質が表れたりするものである。

そのことに関しては、「言行一致」という言葉があるが、「言っていることとやっていることが違う」というのは、かなりその人の評価を下げることになる。企業でも人でもそれは同じで、「お客様第一」を謳いながら、結局自分たちの都合を優先している会社などいくらでもあるだろう。電話をした時にプッシュボタンを長々と押させるような会社が、「お客様第一」なんて掲げていたりするのはザラである。

銀行員時代は特に上司の人となりが、言行によく表れていたと感じていた。ある上司は営業と称して日本全国出張を繰り返していた。営業担当役員であったし、それは「合法的」だったから誰も何も言わなかったが、「どこどこでは何がうまい」とかそんな話ばかりしていると、「何しに行っているのだ」と思うものである。成果が伴えばそれでも良いのだが、その役員はいつもあいさつ程度の役割が中心で、実務は部下が行っていた。よって、契約に至らないのは当然部下のフォローが悪いことになっていたのである。

また、ある時の私の直属の上司は実務の基本的知識がなく、私に説明を求める割にその説明に納得せず、本部等の担当部署に確認するように指示することが多々あった。一応指示だし、確認するのだが、当然答えは私の答えた通りであり、本部の担当者からは「こんなことも知らないのか」というニュアンスで対応されたりすることもあり、いい気分がしないものだった。そんなに部下が信用できないのなら、自分で聞かないと部下が「聞いた振り」するかもしれないのでは思ったものである。

またある人は、見事なくらい「上司にこびへつらう」人であった。「自分の上司」という意味である。サラリーマンである以上、上司の意向を汲んで動くのは当然である。それで組織は機能するわけであるから、いかに会社の方針や上司の指示に従って行動するかは大事なことである。ただし、それにも限度がある。その方は、「自分の考え」というものがまるでなく、常に自分の上司が何を言うかを気にして我々に指示を出していた。

ある時は、トップの部長の指示がおかしな時があったが、それに異を唱えることなく我々に指示を出してきた。当然、私はそれがおかしいと指摘したが、その方は聞く耳持たず。「部長の指示だからやれ」で終わりである。やむなく部長に直接真意を正したところ、部長も自らの過ち(勘違い)に気づき指示を訂正。我々の上司はすぐさまそれに追随。そんな上司に尊敬の気持ちなど欠片も湧かない。

私の尊敬する数少ない方は、ある大組織のトップを歴任され、それは見事な肩書・経歴をお持ちの方であるが、齢80を超えてもなおかつお元気でしかも腰が低い。「実るほど頭が下がる稲穂かな」を実践されているような方で、そういう人の言行に触れていると、自然に尊敬の気持ちが湧いてくる。自分自身、かくありたいと思うのである。

翻ってみて、自分自身はどうだろうと思う。特に年下の者や部下などと接する時には要注意だろう。必要以上に威張っていないだろうか、面倒なことをただ押し付けていないだろうか。自慢話ばかりしていないだろうか。ずる賢いことやセコイ事をする姿を見せていないだろうか。大事なところは人の事より我が事だろう。「あの人のようになりたい」と思われるような行動を取っているだろうか。人間の小さい上司のあれこれを思い出して笑っている場合ではなく、自分の戒めとしたいところである。

孔子の言葉は、人の態度ではなく自分の態度について言っているのだと、ここでは解釈したいと思う。人をごまかそうと思ってもできるものではなく、そうではなくて自ら意識して「こういう人物に見られたい」と思うような行動を心掛けなければならい。何よりもいい反面教師に恵まれてきたわけであるし、それを生かすのは他ならぬ自分自身である。今回の言葉は、そんな自分自身の行動指針としたい言葉だと思うのである・・・




【本日の読書】
 東芝解体 電機メーカーが消える日 (講談社現代新書) - 大西康之 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2017年9月24日日曜日

最後の公式戦

小学校3年から野球チームに入った我が息子。今年はいよいよ6年生で最年長。チームは小学生対象であるため、今年で最後なわけである。そして現在の大会が最後の公式戦。トーナメント形式なので負ければそれまで。ここまで2連勝できたが、本日の相手は「全国三位」の実績のある相手。どこまでやれるか、が焦点であった。

我がチームは何と初回に先制点を奪う。しかし、小学生の試合では1点はとてもリードにはならない。息詰まる投手戦。小学生だと、それぞれの子の成長には差がある。体格の大きな子もいれば、小さい子はその半分くらいかと思えるくらいである。両チームともピッチャーは体格のいい子。この頃は野球のうまさ加減は、体格要因が一番だと思う。そういう相手チームも、ピッチャーはチームで一番体格がいい。

息子のチームのエースピッチャーは、球も速く相手は三振や打ち損じが多い。唯一の難点はコントロールで、過去の試合では四球に死球で連続押し出しも見られた。だが、それを責めるのも酷なところがある。特に相手の打者が小さいとストライクゾーンも小さくなる。そういう相手が打席に立つと、どうしてもボールが先行してしまう。今日はまだいい方であった。

野球というのは、考えてみれば面白いスポーツである。ラグビーではフィールドがきっちり決まっていて、ゴールエリアも明確である。しかし野球の場合、ストライクゾーンは打者によって異なる。その相対的なエリアを見極めるのは審判という「人の目」。ボールを持って攻めるのは「守備側」のチーム。ピッチャーは打者が打ちやすいストライクゾーンに投げないといけない。

試合は4回裏にとうとう追いつかれる。引き離したいところだが、1番からという好打順で、先頭バッターが塁に出るも、好機を生かせず得点できない。そして5回の裏、相手のエースピッチャーが打席に立つと、いきなりのホームラン。さすがに体格がいいだけあって、気持ちいいくらい打球が飛んで行く。そしてそのあとは長短の連打。いつのまにか打者一巡。そしてこの回8点目が入ったところで、審判がコールドゲームを宣言しゲームセット。これが息子の最後の公式戦となる。

我が息子のチームキャプテンは、実はエースピッチャーの子ではなく、何とチーム唯一の紅一点の女の子。先頭打者でファーストを守り、時にリリーフのマウンドにも立つ。なかなか運動神経もいい。元気もあってリーダーシップもあるようで、そんなところもあってのキャプテンなのかもしれない。小学生くらいまでは体格的に男女差は少ないからなせる技とも言える。おそらく中学を卒業する頃までには、成長差が出て対等に競うことはできなくなるだろう。多分ユニフオーム姿からは想像できない可愛らしい女の子になって行くと思う。

最終回の相手チームの怒涛の攻撃。均衡が破れて一気に雰囲気が悪くなりがちな中、我が息子はキャプテンとともに声を出してよくチームを盛り立てていた。これは大事なことだと思う。試合には勢い、あるいは流れというものがある。相手チームに流れがある場合、ともすれば実力以上の点を取られることもありうる。そんな流れを喰い止めるべく、諦めない姿勢を示し続けたのは見ていて頼もしいかぎりであった。

残念ながら、流れというより全国三位の実力差が出たと言える試合。息子は最後の公式戦を終えることとなった。まだまだ練習試合等はあるので、卒業までに今のチームで野球はできるが、それでももう今のメンバーで野球をやるのもせいぜいがあと半年であり、楽しんでやってもらいたいと思う。勝っている時の喜び、負けている中でいかに勝利への執念を保ち続けるか、そんな醍醐味を味わえたなら、今のチームに参加した意義は十分にあったと言える。

親としても、息子を頼もしく思えた試合なのであった・・・




【今週の読書】
 謙虚なコンサルティング ― クライアントにとって「本当の支援」とは何か - エドガー・H・シャイン, 金井壽宏, 野津智子 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2017年9月21日木曜日

無関心の罪

仕事で日常的にマンションとの関わり合いがある。会社で賃貸業を営んでいるのであるが、そのうち区分所有マンションの割合が高いのである。初めこそ、借りていただく部屋の中に全神経が行っていたが、サービスを追求していくとやがてそれが共用部分に広がり、そうすると必然的に管理組合にも関心が及ぶようになった。

ファミリータイプのマンションでは、非居住オーナーや法人は理事になれないとされているところが多く、せいぜいが総会に参加して意見を述べるくらいしかやることはないのであるが、投資用マンションは理事のなり手がなく、そうした理事のなり手に対する制限もなく、したがって今は3つの投資用マンションで自ら手を挙げて理事(長)を務めている。

この投資用マンションでは、オーナーはほとんどが非居住で、悪く言えば「家賃さえ入ってくればいい」という感じでみなわざわざ理事になどなろうとしない。すると当然の如く管理はほとんど「管理会社任せ」となってしまう。そして大半のマンションは、分譲会社がグループで建設して管理してと収益構造を構築している。建てたところが管理規約を定め、管理会社として運営に携わっているのである。

そんなところにもってきて、オーナーが無関心となると、管理会社はそこで安定収入を築くことになる。最近、理事長に就任した某マンションもそんな典型で、理事長として「まともに」仕事を始めたら管理会社も対応が後手後手に回り、いまやこちらからの問い合わせや要求にあたふたしている有様である。

さらに気がつけば、マンションの屋上に管理会社の大きな看板が掲げられているが、これも「管理規約」で無償使用が認められている。もちろん「管理規約」を作ったのは当の管理会社であるから、これぞ「お手盛り」の典型だろう。普通であれば、看板を掲示するのに費用がかかるわけで、それをタダにするルールを作って何も知らない購入者に認めさせているわけである。言い方は悪いが「やりたい放題」なのである。

こうした事実を大半のオーナーは知らない。最近、不動産投資がもてはやされ、特に手軽なマンション投資に飛びついてオーナーになっている人は多いようだが、ほとんどの人が部屋の家賃収入の収支にしか関心がないと思う。マンションに不可欠な管理費・修繕積立金も「仕方ない」と思っているだけで、工夫次第で安くなったり、あるいは値上げを防げたりする事実に気がつかない。

「無知の知」がもてはやされるのはソクラテスの理論だけで、やはり「知は力なり」である。先の投資用マンションでは理事長に就任したのをいいことに、これから管理会社のご都合を是正していこうと考えている。それとあわせて他のオーナーさんにも総会への出席を呼びかけ、こうした事実を「啓蒙」していきたいと考えている。

折から衆議院の解散総選挙が話題に上っている。選挙と同様、マンションも「他人事」だと思っていると、いつのまにか見えない損失を蒙っているかもしれない。それを防ぐには、何よりも「知識」だと思うが、知識がなくても「関心」があれば答えに辿りつけることは多々あると思う。何よりも「無関心」こそが戒めるべきことだと思えてならない。

何事にも関わらず、自分と家族が関係するものであれば、「無関心」だけは避けなければならないと思うのである・・・




【本日の読書】
 自分を鍛える!―――「知的トレーニング」生活の方法 - ジョン・トッド, 渡部 昇一 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義









2017年9月18日月曜日

非正規格差

契約社員の格差 一部違法 住居手当など 日本郵便に支給命令
 日本郵便の契約社員三人が、正社員と同じ仕事をしているのに、手当や休暇などの労働条件に格差があるのは違法だとして、約千五百万円の支払いなどを求めた訴訟の判決で、東京地裁(春名茂裁判長)は十四日、一部の手当の不支給を違法と認め、約九十二万円を支払うよう命じた。正社員と同じ待遇を求めた地位確認の請求は棄却した。
日本郵便の全従業員の約半数にあたる十九万人が非正規労働者。同社は待遇改善を迫られるほか、政府が導入に向けて進めている「同一労働同一賃金」の議論にも影響を与えそうだ。
2017.9.15東京新聞
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最近は、「働き方改革」など我々サラリーマンの働き方を見直そうという動きが強まっている。「同一賃金同一労働」も同様で、特にこれは派遣社員の地位向上を図ろうという大きな動きの中の一環だろうと言える。一見、理にかなっているように思えるが、何となくしっくりこないというのが正直な感想である。

判決の中で違法と認められたのは「年末年始手当」「住居手当」「夏期冬期休暇」「病気休暇」を与えていないことだという。ニュースでわかるのは概要だけなので詳しくはわからないが、「病気休暇」以外は問題ないような気がしてならない。訴えた人は、「年末年始に正社員だけが手当を受けているのが許せなかった」と語っているが、これも考え方だと思う。

正社員も契約社員もそれぞれ雇用契約というものがある。正社員には各種手当がついた契約、そして契約社員にはそれがついていない契約。それぞれが提示を受けた上で納得して契約しているわけである。もちろん、内容の変更交渉など余程優秀で請われて雇われる立場でもない限り無理だろう。黙ってサインするしかない。だが、拒否権はある。嫌なら働かなければいいのである。

「同一労働同一賃金」と簡単に言うが、人間の能力は同じではない。例えば年賀状を配達するにしても、ある人は1時間に1,000世帯配達でき、ある人は800世帯だとすると、それは「同一」としていいのだろうか。こういう労働はまだわかりやすいが、「営業」「企画」などは単純に比較できない。こういう職務に派遣はあまり雇われないのかもしれないが、正規社員間での比較はある。まぁそれは「賞与」や「昇進」でカバーされるのかもしれない。

「住居手当」や「夏期冬期休暇」がないのも、「そういう契約」だと言ってしまえばそれまでのような気がする。もともと「派遣」は短期間を想定してのものだろう。一時的な労働者に必要だろうかとも思う。もっとも雇用期間が結果的に長くなるのであれば、そこは調整が必要だろう。企業も「嫌なら辞めろ」の理論で、休暇も与えず1020年と雇うのは行き過ぎだと思うから、あくまでも「短期が前提」の話ではある。一方、「病気休暇」は短期であっても必要だろうと思う。これは不可抗力の面もあるし、人道的にも認められないのはおかしいと思う。

こうした判決の背景にあるのは、政府が進める「働き方改革」だと思う。しかし、これもこれでいいのかと思うところはある。企業も経済が停滞する中でコスト削減を強いられ、政府だって無駄な税金を減らせという圧力で、民間に委託を増やしたりしている。その先々の現場で増えているのは、「コストの安い」派遣社員である。その派遣社員の待遇を改善することは「コストを増やす」ことに他ならない。コストが増えれば、またどこかで問題が生じるだろう。

東京新聞では、記事を「政府や国会、企業は今回の判決も踏まえ、より不公平感のない働き方の実現に向け、改革を推し進めるべきだ」と結んでいるが、それもどうだろうかと思わなくもない。「全員同じ(正社員)は無理」と判断して「派遣」が生まれてきたわけなのに、それを同じにしようとするのには無理がある。無理を通そうとすれば、元々の目的(コスト削減)ができないか、あるいは外国人労働が増えるなどして「派遣にすらなれない」という結果にならないとも限らない。「平等という名の不平等」という言葉が脳裏に浮かぶ。

ニュースもただ表面的に論じるのではなく、もっと深いところまで切り込んで欲しいと思うことしばしば。政府もマスコミも問題のモグラ叩きをするのではなく、本質を議論すべきではないかと思えてならないのである・・・





【本日の読書】
 謙虚なコンサルティング ― クライアントにとって「本当の支援」とは何か - エドガー・H・シャイン, 金井壽宏, 野津智子 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2017年9月16日土曜日

論語雑感 為政第二(その9)

子曰。吾與回言終日。不違如愚。退而省其私。亦足以發。回也不愚。
()(いわ)く、(われ)(かい)()うこと終日(しゅうじつ)(たが)わざること()なるが(ごと)し。退(しりぞ)きて()(わたくし)(かえり)みれば、()(もっ)(はっ)するに()る。(かい)()ならず。

【訳】
先師がいわれた。回と終日話していても、彼は私のいうことをただおとなしくきいているだけで、まるで馬鹿のようだ。ところが彼自身の生活を見ると、あべこべに私の方が教えられるところが多い。回という人間は決して馬鹿ではないのだ
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論語も約2,500年前のものであり、どういう意図で残されたのかはわからない。あるいは意図なんてそもそもなかったのかもしれない。現代に伝えられている論語の中には、思わず「?」が浮かんでしまう言葉も少なくない。今回の言葉はその最たるもの。孔子がいったいここで何を伝えようとしたのか。ただ、「回はバカではない」というだけなのか。素人には大いに謎である。

人の言うことをおとなしく聞いている人というのは、今でもよくいる。真面目で、言われたことは素直に実行し、あらためて意見を求められるまで自分の意見を述べようとしない。私などは必ず自分の意見を言うようにしているので、こういう人の気持ちは正直言ってよくわからない。ただ、求められれば意見を言うわけであり、よく言えば謙虚、悪く言えば勇気がないと言えるのかもしれない。

そんな事を考えると、ふと思い出すことがある。小学生の息子の学校公開に行った時のこと、授業中に先生に差された子が蚊の鳴くような声で答えていたことである。自分の小学生時代もそういう子はいたが、まわりからするともう少し大きな声で答えればいいのにと簡単に思うのであるが、その子にすればたぶん精一杯なのだろう。そういう子が大きくなったら、あんまり意見を言わない大人になるのかもしれないと思うのである。

考えてみればそんな人物は多々いたと思う。学校でも部活でも社会人でも。そしてそういう人は、寡黙ゆえに過小評価されてしまうところがあるかもしれない。特に社会に出て会社組織に入ると、「声の大きい者が有利」というところがあるから、余計にそうかもしれない。むしろ、声の大きい者より地道にしっかり堅実な仕事をしていたりするから、惜しいように思われる人も少なくない。

そんな人は、気がつくと黙々と目立たないものの、自分の仕事をきっちりやっていたりする。現在身近にいる人も指示された仕事をコツコツとやっていたりする。そんな姿を目にすると感じるものがある。見方によっては「言われたことをやっているだけ」とも取れるが、それでも不満ひとつ漏らさず黙って仕事をしている姿はからは、訴えかけてくるものがある。

孔子が「バカではない」と言った回とは、そういう人物だったのかもしれない。実は、わが父も寡黙な人である。まじめを絵に描いたような人物で、70歳で引退するまで印刷業一筋に働き通した。自営業だったが、毎日毎日同じ作業を黙々と続けていた。私のDNAの中にもそういう姿勢は刻み込まれていると思う。

人の話を黙って聞いているだけでなく、時に自分の意見をきちんと言うということは、確かに大事なことだと思う。さらにそれが人や顔色を見て言うのではなく、誰に対しても臆することなく、必要な時に言えることはなおさらである。黙って聞いているだけで「バカみたい」と思われるのは避けたいが、一方で言葉ではなく回のように「態度で語る」ことができる人物でもありたいと思う。現役時代、1人工場で黙々と作業していた父のように。

孔子がここでは何について言いたかったのかよくわからないが、自分としてはそういう風に理解したいと思うのである・・・




 【今週の読書】
 謙虚なコンサルティング ― クライアントにとって「本当の支援」とは何か - エドガー・H・シャイン, 金井壽宏, 野津智子 欲望 (新潮文庫) - 真理子, 小池 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2017年9月11日月曜日

北朝鮮問題

ここのところ北朝鮮問題が賑やかである。ICBMの発射実験や米国への挑発など。以前からミサイルの発射だとか核実験だとか行われていたが、最近のそれは米国への露骨な挑発(グアムへのミサイル発射予告)が出てきたり、あるいは日本国内でもJアラートが発せられるなどして様相が変わってきている気がする。先日はついにミサイル落下にそなえて小学生の避難訓練が行われたと報じられていたが、煽られる危機感とは裏腹にどうも疑問が生じてやまない。

「本当に重大事なのだろうか」と。

安倍政権を批判する人たちは、特定秘密保護法案や集団的自衛権などの法改正、そしてその先にある憲法改正の動きに対して猛反発している。私個人としては、基本的にこれらに対しては賛成であるし、反対論は概ね「感情論」で同意できないと考えている。しかし、賛成論者が北朝鮮の挑発に対して、「危機」を唱えるのを聞くとどうしても違和感を覚えざるを得ない。北朝鮮問題の本当の問題って何だろうとあらためて思うのである。

そもそもであるが、北朝鮮が我が国に対して攻撃を仕掛けてくるという可能性があるのかというと、どうしてもそうは思えない。もちろん、政府には我々民間には明らかにされていないような現場の情報があるのかもしれないが、ニュースだけを見ている素人にはわからない。そしてそういう感覚から言えば、ミサイルに対する避難訓練などはまったく必要がなく、何か裏があるのかと思えてしまう。

北朝鮮の挑発行為の相手はあくまで米国であり、その目的は自らの存在価値のアピールだと思う。まさか金正恩もアメリカとの戦争は考えていないだろう。中国もロシアも北朝鮮の行動に面と向かって反対しないのも、北朝鮮が潰れて韓国が全土を統一して親米化するのは回避したいと思うからだろう。北方領土をロシアが返したくても返せないのは、そこにアメリカのミサイルを配備されたくないからだと言われているし、それもそうだろうと思う。そうすると国連決議をいくら重ねようとあまり効果はないのかもしれない。逆の立場になって考えてみると、そう思えてくる。

この「逆の立場にたって考えてみる」というのも実は大事なことだと思う。もしも暴れているのが韓国で、そのターゲットが中国とかロシアとかで、北朝鮮が何とか双方を取り持とうとして右往左往しているとしたら、我が国もそれほど大騒ぎはしないであろう。シリアの内戦にどこか他人事であるのと同じで、ヨーロッパの人々のこの問題に関する関心もきっと薄いに違いない。ロシアと中国の感情もきっとそうなのであろうと思う。向こう側から見ると、違う世界が広がっていると思う。

そもそも核を背景に力で世界を思い通りにしようとしている筆頭は何といってもアメリカであり、ロシアや中国はそれに対して挑戦(あるいは抵抗)しているわけである。北朝鮮もその同じ理論で己の立場を強化しようとしているわけであり、本来「平和を分け合う」という思想で互いに譲り合えば争いなど起きようがないと思う。ではアメリカを批判すべきかと言えば、我が国の立場としてはそれをやってアメリカから離れれば、たちまちわがままなオオカミの群れの中で羊が一匹孤立するようなものだろう。まだ世界は無邪気に信頼できるところではなく、そこが難しいところだと思う。

Jアラートも万が一のためにはいいのかもしれない(何といってもミサイルはメイド・イン北朝鮮なわけであり、その気がなくても飛んでくるかもしれない)が、北朝鮮が本気で我が国にミサイルを撃ち込んでくるとは思えない。危機を煽るのは、ひょっとしたらアメリカの意向があったり(忖度かもしれない)するのかもしれない。安易にマスコミ報道に乗せられるのもいかがなものかと思う。「平和ボケ」もまずいだろうが、その反対も当然まずいわけである。

そうした世界情勢の裏側をきちんと報じてくれるマスコミがあれば、心底安心だし信頼もするが、産経や朝日などの両極論の論調を始めとしてマスコミの報道を見ていると、我々庶民は当面闇夜を手探りで進まざるを得ないのが嘆かわしいところである。ただ一つ確実なのは、今の世界で核兵器だICBMだといまだ20世紀の考え方で己の立場を通そうとしている北朝鮮は、やはり異常なことだということである。この乱暴狼藉を働く者を間近の立場としてどうすべきか。悩ましいことだと思う。

私としては、政府にはアメリカにはいい顔をしつつも、裏ではしっかりと国民と国益のために最善を尽くしてほしいと思うのみである・・・




【本日の読書】
 マンションは日本人を幸せにするか (集英社新書) - 榊 淳司 欲望 (新潮文庫) - 真理子, 小池






2017年9月7日木曜日

勉強をする必要性

子供が生まれた時、将来いずれ「なぜ勉強しなければいけないのか?」という質問を受けるだろうと考え、自分なりに答えを用意しておこうと思った。正直、何回かその答えをアップデートし続けてきているが、これまでその質問を受けずにきている。上の子供は、小中学校時代は、「勉強は楽しい」と語っていたし、受験勉強もしっかりやって、都立のトップグループの高校に入学した。親としてはほっと安堵していた次第である。

ところがその後、雲行きが変わる。目標を見失ったのか、高校入学後勉強をする気がなくなり、典型的な燃え尽き症候群に陥って回復の兆しがない。自分も大学受験時、宅浪して一年間一日10時間勉強して気が狂いそうになった経験があり、子供には中学受験に失敗した後、勉強するなと言っていた(正確には「塾へ行くな」であるが)。しかし、私のそんな思いなど通らず、娘は勉強し続け、見事難関を突破したのはいいのだが、その結果がこれである。

娘とはじっくり話をしようと思い、そして聞き出した答えは、「勉強をする必要性が感じられない」というものであった。生まれた時に想定していた質問とは、同じようでいてちょっと違うかもしれない。さて、どうしたものかと思うが、放置するわけにもいかない。そこで自分なりに考えてみた。ただ、自分が高校生の時には考えたことも感じたこともない問題ゆえに、理解を得られるかどうかは難しい。

そもそも勉強に必要性が感じられないのは当然のことである。なぜなら、将来何が必要になるかなどわからないからである。高校生までの勉強ならば、「思考トレーニング」、「教養習得」という意味合いになるだろう。難しい問題に直面した時にどうするか。新しい知識を習得しなければならなくなった時、どのように進めるか。私の場合、過去の自分の勉強の経験からそれを行ってきた。たぶん、みんな似たようなものだと思う。

スティーブ・ジョブズが大学を中退した時、興味本位で覗いたカリグラフィーの講義が後のMacのフォントに役立った話は有名であるが、何が役に立つか必要かなど、後から振り返ってはじめてわかるものだろう。であれば、とにかくいろいろなものに興味を持って、幅広く手を出してみれば、それだけ後々役立つかもしれないと言えるだろう。だから、今はあれこれ考えず、せめて学校の勉強を楽しく学んでほしいと思う。

そうした説明をしたのだが、娘の心の内はわからない。ただ、すぐには理解できないかもしれない。親としては、しっかり勉強して、せっかくだから一流大学に進学してほしいし、さらに欲を言えば国立大学であれば言うことはない。ただ、世に言う「いい大学に入って、いい企業に就職して」などというつもりは毛頭ない。親に頼らずとも、自分で世の中を生きていく力をつけて欲しいし、そのために常に勉強し続けることを厭わないでいてほしいと思う。

私の父は、家が貧しくて高校へ進学できなかった。中学を出てすぐに東京へ働きに出てきたが、常に「進学したかった」という思いは持っていたと言う。転職の面接で、「中卒ではせいぜい工場長止まり」と言われたこともあったという。まだ学歴優先社会の時代だ。今は苦労しなくても大学まで行ける時代となったが、昔はなかった問題が出てきているのだろう。昔の人からすれば、「何贅沢言ってるんだ」と言われかねないが、現代に生きる娘には切実な問題とも言える。

果たして娘の抱える問題を解消してあげられるのか。それこそが親としての試練だと思うし、寄り添いつつ解決に向けて伴走してあげたいと思うのである・・・

 

【本日の読書】
 逆説のスタートアップ思考 (中公新書ラクレ) - 馬田隆明 陸王 (集英社文庫) - 池井戸潤





2017年9月4日月曜日

ルール

いよいよ八月も終わり、ラグビーシーズンが本格化する。母校の成績も気になるが、それ以外にも一流チームの試合を観戦するという楽しみも尽きない。そうしたシーズン開始にあたり、今シーズンから試験的なルール変更が導入されることになっている。「ラグビーはルールがわかりにくい」と言われているが、ラグビーのルールは、「簡単と言えば簡単」、「難しいと言えば難しい」ものだと思う。

素人的には、難しく考えずに簡単に見ればいいというのが私の意見。細かいルールなど分からなくても、「前に投げたり落としたりしてはいけない」「倒れたらボールを離さないといけない」など覚えておけば、細かいルールなどは分からなくてもいいと思う。我々でさえ、外から見ていれば密集の中で何の反則があったのかなど分からない。レフリーが笛を吹いたら反則があったという理解で十分ではないかと思う。

知らない人はともかく、知っている者はこうしたルール変更についていかないと、観ていても混乱しかねない。なので一応頭には入れるが、あとは観て理解するしかない。そんなルール変更の通達があり、卒業した大学のラグビー部のメーリングリストで親切にもそれを教えてくれる人がいて、自分はそれを一生懸命理解しようとしている。そこでふと気がついたのだが、教えてくれる人はラグビー協会に出入りしている人で、ラグビー協会もまた世界ルールについては一生懸命理解し、伝えようとしているのだと。

何でもそうだが、ルールには「作る人」とそれを「守る人」がいる。ラグビーはイギリス発祥のスポーツで、ニュージーランドを始めとする世界の強豪国がルール制定にも指導的立場にある。日本がルール改正を主導していくことはまずないのだろう。そう言えばオリンピックでも、確かスキーやバレーなど日本がメダルを独占していたらルールを変えられて勝てなくなったという話を聞いたことがある。ラグビーではそもそも強豪国は日本など眼中にないだろうからそういう陰謀めいたものはないが、日本人はルールを作るより守るタイプだと何となく思う。

例えば、オリンピック競技のように欧米は勝つためには自分たちの有利なようにルールを変えてしまおうとするが、日本人はルールの中でいかに勝つかと努力する。それはビジネスの世界でも同様な気がする。海外で開発された製品を改良するのは得意だが、そもそも生み出す力は弱かったり、あるいは日々の仕事でも与えられた範囲内で一生懸命やろうとするが、そもそもその範囲を超えたり変えたりすることは苦手だったりする。

今の会社でも新しいことをやろうと言い出す人は誰もいない。仕事の上で、意見具申してくる人もいるが、大抵それは方法論の世界で、「同じやるならこうした方が効率的」という内容である。その前提としてその仕事をするというものがあり、その仕事をしようかどうしようかという提案ではない。それはそれで悪くはないのであるが、何となく「決められた枠組みでやる」ということに居心地の良さを感じているように思えるところがある。

それは突き詰めていくと、日本人の平等意識にあるのかもしれないとも思える。例えば集団の中で意見が対立した時に、誰が正しいのかを決める基準が必要となる。みんなが平等と考えると、その基準はみんなが納得したものでなければならない。全員であらかじめ合意形成をするか、あるいは絶対的な人が決めるか。言って見れば「錦の御旗」意識である。「お上」とか「お家」とか天皇陛下とかGHQとか。

そうした「従うべき基準」を元に、価値判断をしているのが性になっていると思うのだが、どうだろうか。そう言えば若い頃、休日にも会社の行事に駆り出され、「仕事だ」と言われれば逆らうことが許されない雰囲気であったが、それもそんな性の延長ではないかと思う。ラグビーの世界では、強豪国がリードするルールに従うのは仕方ないかもしれない。そして過去にはそんなルールをうまく解釈して世界を驚かせるプレーを開発した実績もある。それはそれで1つの特技であるとも言える。

総勢10名の中小企業では、常に誰かが舵取りをしなければならない。そこには決まった進路もルールもない。幸い船頭役を担うことを認めてもらえているし(自然的にそういう風にもっていったのである)、これからも自分はルールを守るよりもそれを作る役目を果たしていきたいと思う。家庭内では有無を言わさず守る立場になってしまっているが、せめて職場では「作る人」でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 キャスターという仕事 (岩波新書) - 国谷 裕子 陸王 (集英社文庫) - 池井戸潤