2017年7月17日月曜日

ブラックorホワイト

定例の通勤読書で、『野村證券第2事業法人部』を読み終えた。タイトルにある通り、元野村證券勤務の著者が、自らの野村證券での半生を描きながら、自らが被告となっている「オリンパス巨額粉飾決算事件」の無実を訴えるという内容のものである。正直言って、著者が無実かどうかはあまり興味はないのであるが(でもご本人の弁を信じれば無実に思える)、読んでいて興味を持ったのは、かつての野村證券の「ブラック企業」ぶりだ。

平成バブルの前は、証券会社といえば「給料はいいが仕事はきつい」と言われていた。野村證券も「ノルマ証券」と揶揄されるくらいだった。88年に就職した私も、証券会社だけは行くまいと決めていた(それは多分正解だったと思う)。そんなハードな野村證券に著者は入社する。そしてさっそく厳しいノルマを課せられる。

ノルマが厳しいと言っても、商品がよければまだいいが、著者が課されたのは客が損するだけの商品。入社した者の半分が辞めていったというが、まともな良心があれば当然だろう(私も間違いなく辞めていただろう)。そんな中で、著者は冷酷に売りつけてノルマを達成するのではなく、相手の懐に飛び込んで信頼を勝ち得て行くやり方で実績を上げていく。転勤に際して、「俺の損を無駄にするな、立派になれ」と声を掛けてくれたというから相当頑張ったのだろうと思う。

この頃は、CMで流行っていたが、「24時間働けますか」の世界である。今でいうなら完全なブラック企業であり、そのブラックぶりは今問題となっている企業がみんな可愛く見えるくらいではないかと思う。その中で身につけた著者の実力というのは、何気なく書かれていることから察しても相当なものだと思う。それは逆にいえば厳しかったからこそ身につけられたと言えるかもしれない。

この週末に観た映画『セッション』も似たところがある。音楽学院を舞台に鬼コーチが主人公をシゴキまくる物語である。それは常軌を逸しており、そのシゴキで生徒が鬱になって自殺しているくらいだが、鬼コーチは手加減をしない。主人公も狂気の様でこのシゴキに耐えて行く。ラストの顛末は、2人の狂気が大爆発するのであるが、主人公が達したレベルはおそらく鬼のシゴキがなければ達することのできないところだっただろうと思う。見方によっては、その「ブラック練習」があったからこそと言えるかもしれない。

ブラック企業として名指しされることの多いワタミも、なかなか名指しが解消されないようだが、それも渡邉会長の自らの経験に基づく考え方が根底にあるからかもしれない。買ってでもしろという「若い時の苦労」の中には、ハードワークの経験が大いに入るだろう。中には安くこき使って疲弊させるだけのブラック企業もあるだろうが、そういうのは除外するとしても「キツイ仕事」の経験は(若いうちは特に)、必要ではないかと個人的には思う。

人それぞれの考え方もあるし、耐性の問題もある。将来の自分の肥やしになると言われても、「そこまではしたくない」という考え方もある。心を病むまで行くとそれはやっぱりやり過ぎだが、全否定も良くないと思う。例えばプロの一流選手なら、練習は定時のみということはないだろう。それなりに実績を残している人は、通常の時間外にも人の見ていないところで練習しているだろう。そういう「時間外」まで、一律に「働き方改革」とかで規制して欲しくない気がする。

では、例えば時間外を例に挙げるとすると、何が良くて何が悪いのかとなる。要は「強制」の有無だと思うが、ある程度「強制」がないとできないのも人であるから、その加減が難しい。『セッション』の主人公も鬼のようなシゴキがあったからこそ、ラストの迫力ある演奏が可能になったという面もある。自分であれば「納得」がまずあって、自分で必要だと感じたらシゴキにも耐えるし、長時間時間外労働にも耐えられるし、あるいは反骨心から頑張るかもしれない。36協定なんて鼻で笑って無視すると思う。ただ、部下にどこまで求めるかというとそれは難しい。

「働き方改革」はいいことだと思う。精神的にも穏やかに仕事をするのが何より一番である。ただ、「ハードワークから得られるもの」があることは事実であり、それが失われるのはもったいないとも思う。これはかなり難解な問題だと思う。どう考えればいいのか、どうすればいいのか、将来子供たちがこの問題で悩んだらなんてアドバイスするのか、今の段階でこれという答えを見出すことは難しい。ただやはり自分はこう思うという答えを持っていたいと思うし、これからも折に触れ考え続けたいと思うのである・・・





【今週の読書】
 
    


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