2017年7月30日日曜日

望月

例年のごとく、この時期一足早い夏休みを取った。そして実家の母の要望を受け、母の故郷である長野県の望月町へ墓参りに出かけてきた。同行したのは、母の姉と妹。平均年齢80歳の三姉妹との道中は、それはそれは賑やかであった。昔は車なら6時間、国鉄の急行電車とバスなら4時間近くかけないと行けないところであったが、今は関越、上信越自動車道が開通し、車で3時間の距離である。

墓参りは、昨年伯父の一周忌以来である。今回は我々だけであり、行動も自由とあって昨年行けなかった祖父の実家にも足を伸ばした。と言っても墓からはほんのわずかな距離である。私自身何十年振りかであり、楽しみにしながらの訪問であったが、しかし訪れたそこは雑草の生えた更地。何と建物は取り壊されてなくなっていた。

更地になっていた祖父の自宅
 この地における私の記憶は、多分幼稚園から小学校の低学年くらいだ。おそらくお盆の季節であったのだろう、若かりし頃の伯父伯母らが家族とともに参集し、賑やかだった気がする。母は6人兄弟であり、いとこ同士も結構な人数になった。親に連れられ、田んぼの中の道を抜け近くの川で遊んだのを今でも覚えている。昭和40年代の半ば頃であったと思う。当時の田んぼと川に続く道はあの頃のままであった。

鹿曲川へと続く道
当時、いとこたちと何をして遊んだのかなんてもう覚えてはいない。所々の記憶も断片的である。裏の山に登って行って、そこで手紙付きの風船を見つけて文通をしたことがあったとか、蜂の巣を落として蜂の子を料理したとか、土蔵があってその中にあった五右衛門風呂に入ったとか、今考えてみても都会にはない生活がそこにはあったと思う。テレビでやっていたあさま山荘事件のライブ中継も強烈な印象として残っている。

その後、本家にはゴタゴタが生じ、祖父の家に行くことはなくなってしまった。望月の祖父の家に行ったのも小学生の頃までである。もうあの頃の祖父の家も記憶の中にしかないと思うと、寂しいところである。しかしながら、望月の町並みはまだあの頃の面影をそこかしこに残している。母らも車中からあそこは誰々の家だとか、そこここに同級生がいたとか、何々があったとかと各々語る。子供の頃花火を見た千曲川にかかる中山道の橋は今も当時の姿を残している。昔ながらの町並みは懐かしい一方、全体的に何となく寂れている感は否めない。

近所の人に聞いたところ、祖父の家は昨年人手に渡り、取り壊されたとのことであった。多分、来年来たらこの地には新しい家が建ち、そこに新しい家族が住み、かつてこの地であった祖父一族の営みについて何一つ知られることもなく、また新しい歴史が積み上げられて行くのであろう。それが人の世というものであるが、一族の歴史を知る者としては残念な気もする。

昔の流儀で祖父の家は長兄が相続。長兄亡き後は、娘たちが東京に住んでいたため義理の伯母も娘たちのところへ行ったという。祖父には息子が2人いたが、息子が生まれたのは次兄のみ。私の従兄弟であるその息子は独身なので、もう祖父の家系も男系としては終わりである。残されたのは一族の墓のみ。やがて従兄弟もこの墓に入るだろうし、そうしたらもう誰も墓参りには来なくなるだろう。

これから日本中でこうして絶えていく家系が続々と出てくるのだろう。どんなに頑張ってもそれを見届けることはできないわけで、どうなっていくのか想像するしかない。母ら三姉妹がまた来たいと言えば、また付き合おうと思っている。自分のできるのはせいぜいそのくらいだからである。その時にはまた、望月のまだ昔のままの田園風景を楽しみたいと思う。次はまた来年の夏でもいいかもしれないと思うのである・・・



【今週の読書】
 



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