2016年8月7日日曜日

否定するのが難しい折衷案の思想

 先日、大前研一の0から1の発想術』という本を読んだ。この方の本は相変わらず示唆に富んだものが多く、色々なところで大いに刺激を受けることがある。この本の中で、「我が意を得たり」と思わされた一つが、「中間地点の発想」であった。


これは、喩えとして東海道新幹線の東京駅と新横浜駅の間に品川駅という停車駅を設けて成功したJRの例を挙げていたが、そんな「中間点」で発想してみるというヒントであった。そして注意事項として、「中間点の発想は、会議で相対峙する意見の折衷案を出すこととは違う」とされていた。この折衷案というものに、唖然とさせられた経験があるから、尚更「そうだよな」という気持ちを強く持ったと言える。

つい数年前のことである。高校の同窓会総会の幹事をしていた私は、総会の活性化策として、「総会会費無料化」を提案した。当時(今もだが)、ほぼ固定メンバーで定着して増える兆しがなかった総会にいかに人を呼ぶかで、私は二つの案を考えた。総会に新しい人が来ない原因として、「知っている人がいない」ことと、「会費(6,000)が高い」という二つがあると考え、(「知っている人がいない」ことに対する対策はここでは省略するが)会費については「無料化」を考えたわけである。

そもそも仲間で集まって飲みに行けば、今の時代一人頭4,000円で足りる。なのに、「知り合いもいない=つまらない」総会に6,000円も払ってくるわけがない。幸い同窓会には余剰金も多額に積み上がっていたため(実はこれも問題視し、その対策も兼ねたわけである)、資金的には問題ない。来る人の立場に立てば、タダなら抵抗もないだろうし、そこで顔見知りと盛り上がって二次会に行っても費用負担はない(むしろ総会で飲み食いした分、二次会は安く済ませられる)。我ながら、いい案だと思ったのである。

ところが、幹事総会で提案したところ、議論は紛糾、「タダで飲み食いするのはけしからん」という意見に押され、私の提案は棚上げとなってしまった。まぁそれはそれで仕方がない。唖然としたのは、そこでさらなる対案として、「会費を3,000円にする」という《折衷案》が出てきたことである。相対立する意見に、その場を和やかに済ませようとして、双方が妥協しあうのは美しい姿である。だが、「それが意味あることか」がこの際大事である。しかし、「会費を3,000円にする」という折衷案には、この視点が完全に脱落してしまったのである。

確かに、3,000円は両者の折衷案ではある。だが、普段来ない人を総会に呼ぶのに、「タダだから」というのと、「会費3,000円」というのとでは大きく異なる。タダなら、親しい友人を誘いあって参加し、飲むもの飲んで食べるもの食べたらその後飲みに行っても4,000円だ。しかし、3,000円取られたら、二次会とトータルで7,000円かかることになる。これなら最初から親しい友人同士で4,000円で飲みに行った方がいいとなるだろう。つまり、「無料」だからこそ意味があるのであり、「有料」なら意味は無くなってしまうのである。

折衷案を提案した人は、その人なりに一生懸命、「その場」のことを考えたわけである。しかし、残念ながら、「その問題」については考えが及ばなかったわけである。まさに本末転倒な話なのであるが、実はこれはそんなに特別なことではなく、会議ではよくあることである。それは思うに、我が国の「和をもって貴しとなす」伝統であり、「日本人の議論下手」の原因でもあると思う。

非常に良き伝統であり、折衷案を提案した人も熱心な人格者ではあるのだが、だからこそ得も言われぬ気分になってしまうのである。議論しあって感情的になる人も多く、徹底的にロジカルに議論するということができる環境はなかなか少ない。それこそその場を仕切る人の人格によるところが大であり、ちょっと器の小さい、自己に対する批判的な意見に寛容でない人物になるともうお手上げである。

日本人ならではの美徳と欠点が、紙一重よりも薄く接している部分であると思っている。この「折衷案の発想」からの脱却が、議論上手への道だと考えている。「どこまで言っても大丈夫だろうか」という心配することなく、こちらの意図をきちんと理解してもらえるメンバーで、大いに議論してみたらさぞかし気持ちいいと思うのであるが、現実的にはなかなか難しい。悪いことではないと思うのであるが、だからこそ余計悶々と思う問題なのである・・・






【今週の読書】
 
    

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