2011年8月9日火曜日

カーナビ

先日の事、転院する母を送って行く事になり、実家の車に乗った。
親父は運転歴が長いのだが、「道を知らない」と運転を躊躇したので、代わりにハンドルを握ったのだ。「都内の道だし、適当に看板見ながら行けばいいじゃないか」とも思ったが、そこが年という事なのかもしれない。私も道を知っていたわけではないが、事前に地図を見て、大体の方向感だけ掴んでキーを回した。

運転してしばらくして、なんとなく違和感を感じた。
まもなくそれがカーナビだと気がついた。
自分の車には、車を買い換えた時につけたカーナビがあるが、親父の車にはない。
違和感の正体は、ダッシュボードを見るたびに視線が空振りする事だったのだ。
無意識のうちに、あるべきところにあるはずのカーナビを求めていたのである。

慣れというのは恐ろしいもので、運転する時にカーナビを見る癖がすっかりついていたようである。といっても、運転するたびにナビゲートしてもらっているわけではない。
ただ、地図上に現在地が表示されるため、「今どこを走っているのか」がナビの地図上ではわかる。それが、現実の道路とミックスされて脳内にインプットされていたのだろう。
沖縄でレンタカーを運転したが、今はレンタカーにもカーナビは標準装備されており、その時は違和感を覚えなかったのだ。

やはり、というか曖昧な記憶を頼りに、なんとなくの方向感で行ったのだが、右折したいところでできなかったり、曲がるべきところを曲がらなかったりとだいぶ無駄な時間を取ってしまったが、無事に往復できた。まぁ都内だから、看板見ればなんとなく地図が頭に浮かぶから方向は間違えない。しかし、見知らぬところでは、こうはいかない。


やっぱり、カーナビって便利だと感じる。
もっとも、常に最適表示されるわけでもない事はとっくに気がついている。
家の近所などでは、「どこ連れて行く気だ!」とカーナビに向かって毒づく事はしょっちゅうだし、同じ遠回りの案内を決して改めようとしない。
学習効果という機能はどうやら搭載されていないらしい。

カーナビなどなくとも、親父は相変わらず昔流で運転しているし、私自身どうしても必要だとは思わない。ただそれでも渋滞情報と到着予想時刻は重宝している。
これはアナログな方法ではきめ細かく入手できない。
リアルタイムで表示されるから、先回りして行動を選ぶことができる。
「カーナビなんて」とはバカにはできない。
やっぱり便利だ。

人生にもこんなナビゲーションシステムがあったら、後悔ばかりの人生を歩む事もないだろう。「この先渋滞中」とか、「ここに行きたきゃこのルート」、「今ここ」などその都度その都度表示してくれたら便利だ。受験や就職や恋愛なんかの様子もかなり違ったものになっていただろう。
無駄は減るし、迷っても暗中手探りで模索なんてしなくて済む。たとえあっても盲信は危険だけど・・・
ドラえもんの世界だな・・・

親父にとっては「今さらカーナビ」らしいから、実家の車はこれからもカーナビなしだ。
昔はマニュアルギアが当然だったが、今はほとんどオートマだし、車もどんどん変わっていく。昔ながらの感覚を磨くのに実家の車は便利だ。
これからもアッシーになる事は多いと思うが、それはそれで楽しもうと思うのである・・・


【本日の読書】
「フォールト・ラインズ」ラグラム・ラジャン
「壬生義士伝(上)」浅田次郎


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