2010年4月10日土曜日

罪と罰

 中国で日本人が死刑になった。容疑は麻薬密輸罪。日本の感覚でいけばとても死刑になどなるほどの犯罪ではない。とはいえ、中国には中国の事情がある。一概に批判するのは難しいかもしれない。

 そもそも世界の大半の国で、すでに死刑そのものが廃止されている。それらの国々からみれば、死刑がある日本だって奇異に見られているかもしれない。中国の事情はよくわからないが、麻薬による犯罪が危機的レベルにあってやむを得ないのかもしれない。

 思い起こせば法学部に在籍していた学生時代、ある時「心神耗弱」について議論したことがあった。殺人を犯しても心神耗弱の状態にあると無罪になる事がある。「麻薬を使用し心神耗弱状態にあった者が殺人を犯しても無罪になる」事について、それはおかしいのではないか、と担当教官に疑問をぶつけた。「もしも、やむを得ないとしても麻薬使用の罪で(殺人と同様の)刑を適用できないのか」と問うたのだ。

 教官は穏やかに笑っておられた。当時の私が今日の中国の制度を知ったら、きっと我が意を得たりと納得していただろう。とは言っても当時ですら、「結果として重犯罪を犯した場合」を想定していたので、「所持していた」だけで死刑とまではさすがに考えなかったのも確かである。

 罰則を強化すれば犯罪は抑制される。もしも日本でも麻薬取締法違反=死刑となったら、次から次へと捕まる芸能人だってさすがにビビって手を出さないだろう。あれだけ社会問題となっているにも関わらず、相変わらずなくならない飲酒運転だって、死刑となればピタッとなくなるのではないだろうか。

 そもそも麻薬も飲酒運転も本気でやめようとしないからなくならないのだ。心のどこかで「ちょっとぐらい構いやしない」と思っているのだろう。麻薬も飲酒運転も即死刑としたっていいではないか。そうなったとしても、私自身は何とも思わない。要は犯さなければ良いわけで、麻薬だって飲酒運転だってこの先やらないで生きていく事は十分可能だ。もしも反対する人がいたとしたら、それは「犯罪を犯す」事を前提にしているわけで、それがそもそもおかしいとさえ言える。中国の法制度も問題があるとは言えない。

 そんな罪など犯すはずはないから全然怖くないと言っても、それでもやっぱり恐ろしさが脳裏を過ぎる。それはきっとそんな罪状で簡単に死刑としてしまう発想の怖さだろう。中国では一人当たりのGDPと同様、命も日本人よりは遥かに軽い。

 なんでも死刑は銃殺が普通で、頭を打ちぬかれたあと体は臓器移植とか医療用の検体に提供されるようだ。もちろん本人の承諾などいらない。今回日本人は薬物注射による死刑だったようなので、中国もそれなりに我が国に配慮したのだろう。死刑になった一人は、日本でも強盗で指名手配されていたようであるから、自業自得なのかもしれない。

 死刑制度自体は存続してしかるべきだが、社会が荒んでくれば重罰をもって対処するのもやむを得ない。そんなものに頼らなくてもきちんと社会のシステムが維持していけるのが一番望ましいことだ。かの国のようにならないようになってほしいものだと思うのである・・・


【昨日の読書】
「シンプルでうまくいくコミュニケーションの技術」天野雅晴
「自由への長い道」ネルソン・マンデラ
       
     

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