2009年4月24日金曜日

武術を学ぶということは・・・

実は私は格闘技ファンである。
見る方専門であるが、自分でやりたいと思った事も当然ある。
柔道、空手、合気道、と特に日本の武術については、子供の頃にやっておけばよかったなとつくづく思う。タイミングを逃してしまったのだ。
だが、合気道については実は入門一歩手前までいった事がある。

社会人になってしばらくした頃、取引先の社長が合気道の道場を運営している事がわかった。
話を聞いて興味を持ち、いい機会だからやろうと思った。
そして入門を申し入れようとしたその時、その社長が言った一言で興味を失ったのだ。
「喧嘩に使ったら破門ですよ」

そもそも格闘技を学ぶ目的は何なのか?
その社長も言っていたが、「精神の修養」である。異論はない。
では「精神の修養」とは何なのか。
残念ながらその社長にはわかっていなかった。「喧嘩に使ったら破門」などと言う人物がわかっているとはとてもではないが、思えなかったのである。

例えばタクシー待ちの行列に並んでいたとする。
そこへチンピラ風の者が割り込んできた。
誰もが見て見ぬ振りをしようとする中、勇気ある老人が注意した。
頭に来たチンピラが老人に殴りかかろうとしたその時、どうするのか?
止めに入れば間違いなく喧嘩になる。

ここで「喧嘩に使ったら破門だから」と言って見て見ぬ振りをするようであれば、私が道場主であればそれこそ破門だ。先の社長の一律禁止論ではこれに答えられない。
「子供にはそんな判断は無理だから、一律禁止とする」というのも正解ではない。
子供だからこそ、考えさせるのだ。
友達がいじめられていたらどうするのだ、と。

「精神の修養」とは、「感情と技術のコントロール」であると言える。
例えば5歳の子供に喧嘩を売られたとして、まともに相手をする大人がいるだろうか。
適度に相手をして、必要があれば「お灸を据える」かもしれないが、まともに殴る大人はいない。
それは相手の力と自分の力を比較し、絶対勝てるという安心感から心の余裕が生まれ、適度に力を加減して必要最小限の対応ができるからである。
格闘技を学ぶ目的は、この境地に達する事である。

余裕があれば、例え揉めそうになっても謝る余裕ができる。
ライオンに勝てると思えば猫にもなれるのである。
例え喧嘩になっても相手を怪我させない程度に戦意喪失させる事もできる。
どの程度まで力を使えばいいかの判断ができる。
その余裕の境地こそが、格闘技を身につける目的である。

一律喧嘩禁止ではその答えに到達できない。
仮に精神の未熟さから喧嘩をして破門された子供はどうなるのだ。
中途半端なままの力を無制約に振り回す事になる。
中途半端に教えて放り出すのは無責任極まりない。
それがわかっていない。

もしも私が道場主であったなら、道場には次のようなルールを決めるだろう。

1. 格闘技を学ぶ究極の目的は「闘わずして勝つこと」、そこに至るまで各人精進すること
2. 力を使うのは自分、または誰かを守る時のみ、いたずらに喧嘩で使う事は厳禁
3. 力を使った時は報告する事、胸を張って報告できるか、力を使う前に考えよ
4. 力を使う時は本道場の生徒として恥ずかしくない結果を出す事   
                                    
以上


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