2022年8月14日日曜日

論語雑感 雍也第六(その22)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

樊遲問知。子曰、「務たみ義、敬鬼神而遠謂知なり。」問よきひと

曰、「よきひと者先難而後獲、よきひとなり。」

【読み下し】

樊遲ほんちさときふ。

いはく、たみよきことつとめ、みたまゐやまとほざくるを、さときなり

よきひとふ。

いはく、よきひとなるものかたきさきにしうるのちにす、よきひとなりと。

【訳】

樊遅が知を問うた。

師がこれに答えた。

「民が正しいとすることの実現に務め、亡霊を敬いつつ遠ざける。これを知と言っていい。」

仁者らしさを問うた。

師がこれに答えた。

「仁者たる者は難しい仕事を先に行って、報酬を後で受け取るものだ。仁者らしいと言っていい。」

『論語』全文・現代語訳

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 普段から漫画を読んでいるが、最近読んだものに『チ。―地球の運動について― 』がある。これは地動説についての物語。漫画の中の登場人物たちが天体観測を通じて教会の教え(天動説)に疑問を持っていくというもの。まずは惑星の動きがおかしいというところから始まる。天動説によれば惑星の動きは一方向であるはずなのに、途中で戻る動きが観測される。これをどう解釈すべきか。そこから実は自分達のいる地球が太陽の周りを回っているのではないかという仮説に辿り着くのである。


 科学的には適切なアプローチなのであるが、これに猛烈に反発するのが教会勢力。神の教えに反く危険な考えとしてこれを弾圧する。考えを改めない者は不穏分子として火刑に処されてしまう。たかが学説であるが、当時は命懸けなのである。ガリレオが宗教裁判で、「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードも有名である。それは17世紀の話であるが、それより2,000年も前に「民が正しいとすることの実現に務め、亡霊(神、霊的なもの)を敬いつつ遠ざける。これを知と言っていい。」と語っているのは実に深いと思う。


 今の時代であれば、それはもう遥か昔の科学が発達していなかった時代の物語としてしまいそうであるが、盲目的に何かを信奉し、冷静な議論を封じようとするということは今でもありうることである。身近なところでも、新しい提案に対し、過去の出来事や以前からの慣習などを盾に議論を否定してしまうということは多々ある。そこには、過去においては確かにそれで良かったかもしれないが、時代は変化しているということを考慮しない、あるいは単に変化を嫌うということもあるかもしれないが、白紙の状況で考えてみるということを厭うことがあるのだろう。


 本来であれば、地動説に対しては、きちんとした観測記録なり考えなりの根拠を示して議論を戦わせるというのが知的態度であると思うが、面倒なのか自らの考えに固執するのか、当時の教会はそうした「正しい態度」を取れなかった。しかし、似たようにケースは現代でも往々にしてある。誰もがガリレオの時代の教会の態度に呆れるが、自らが本質的に同じ態度をとっていることに気づかないのである。そういうものなのかもしれないが、改めてそれが側から見てどうなのだと考えると、大いに考え直したいと思うところである。


 仁者のあり方として説かれる「難しい仕事を先に行って報酬を後で受け取る」という考え方は、中国古典では『孟子』に「先義後利」という考え方で紹介されているようである。もっとも、孟子の方が時代は後だから、もしかしたら孔子の言葉がヒントになっているのかもしれない。この考え方は、ビジネスでは当たり前のようになっている。日本でも富山の薬売りなどはこの典型だし、そういう意味では歴史も古い。また、「金の話」はどうしても卑しく思われてしまいがちであり、そういう我が国の気風にもマッチするのかもしれない。


 ビジネスでも確かに「先に金の話をする」というのは、避けたいところである。ただ、最近、それもどうなのかと思わなくもない。それは今の会社に入って採用も担当するようになってからそんなふうに感じるのである(小さな会社の総務部は、財務も人事も兼務なのである)。中途採用においては、当然「給料はいくら」という話をした上で、求職者も考える。私も転職時に「給与はいくらか」というのが、重要なファクターであった。私の場合は、転職の際に最終的に2社に絞り、給与が低い方を選んだ(あえて選んだのではなく、総合的に考えて給与以外に魅力的な部分が多かったのである)が、それでも給与の条件は「事前に」確認すべきものである。


 しかし、新卒採用の場合、基本的に給与の話は双方ともに出ない。求職者には募集要項を開示しているから、それを見てある程度の目処はつけていると思うが、基本的な初任給は着任時に正確な金額が告知される。「先義後利」の考え方とは多少違うと思うが、「まずは働いてから」という部分では共通しているのかもしれない。提示する方からすると、怖さがある。「本当に給料に見合う働きをしてくれるのか」という疑問があるからである。低ければまだしも、要職でそれなりの給与を払うとなると、不安が残るのは事実である。あまり低くしてしまうとそもそも入社してくれないというリスクもある。


 私も入社時には迷いもあった。給与自体はもう1社の方が高かったからである。しかしながら、転職後1年で随分と評価していただき、先月から役員にもしていただいたので、結果的に給与(役員報酬)の方は今の会社の方が高くなった。後からついてきたと言えるが、それだけの働きをしたから迷いもなく高い給与をくれるのだと思う。私も堂々といただいている。先に働くというのは、働く方からすればリスクである。ただし、それはビジネスマンである以上、「取らなければいけないリスク」であると思う。働いて実績を出してから、要求すべきものであろう。


 当然と言えば当然であるが、世の中に給与に対する不満は尽きない。そこには「もっともっと」という人間の欲もある。かくいう私も「もっと上げて欲しい」と常に考えている。それはそれとして、「もっと上げて欲しい」という考えは持ってもいい考え方だと思う。ただ、そこには「仕事をきちんとこなして」ということがあるのは当然のことである。それは仁者でなくても、働く者の心得と言えるだろう。実際、評価の高い社員から面談時に「給与をもっと上げて欲しい」と言われると、頼もしいと感じるし、会社としてもそれに応えないといけないとも思う。


 2,500年前の孔子の言葉は、形は変わっても今に至ってなお真理である。仁者を「ビジネスパーソン」に置き換えて、理解したいと思うのである・・・



M WによるPixabayからの画像 

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