2021年7月11日日曜日

天国と地獄

 生前、良い行いをした者は天国へ行き、逆に悪事を働いた者は地獄へ落ちるということは誰もが知っている話である。キリスト教でも仏教でも同じように天国と地獄があるのは偶然か、はたまたどこかで融合したのかは知らないが、昔はそれなりにいいことをしようというモチベーションと、悪いことはすまいという戒めとして子供に対する教育などの点で効果があったのだろうと思う。今はそういう効果はほとんどないかもしれない。

 それでも、ひどいことをされて泣き寝入りせざるを得ない状況なんかで、相手を恨んで「ろくな死に方はしないだろう」と考える程度は今でもあると思う。この世の中は、決して公平ではなく、むしろ当たり前のように不公平であり、理不尽である。清く正しく生きていても、幸せになれる保証は微塵もないし、ひどいことをしても何の咎めを受けないことも珍しいことではない。幸せになるか不幸になるかは、その人の行いとはまったく関係がない。まぁ、人に喜ばれる良いことをすれば、心の充足は得られるかもしれないが、悪いことをしてもそうかもしれない。

 『鬼滅の刃』19巻で登場する上弦の弐の鬼・童磨は「この世界には天国も地獄も存在しない。それは人間による空想」だと断じる。「悪人がのさばって面白おかしく生きていても天罰は下らない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって思わなきゃ精神の弱い人はやってられないでしょ」と語る。身も蓋もないと言えばそれまでであるが、その通りだと思う。これだけ酷いことをした相手が何の咎めも受けず、バチも当たらずのほほんと生きているのが悔しいという思いがあり、消化できないその思いをせめて「いつかバチが当たるに違いない」と思うことで慰めるのである。

 イソップ童話に「すっぱい葡萄」という話がある。キツネが美味しそうなブドウを見つけるが、高いところにあって届かない。ついに諦めるが、その時に「あのブドウはすっぱくてまずいに違いない」と言って去るのである。「すっぱいから食べないほうがいいのだ」と思うことで、悔しい心を慰めているのである。身近なところでもそんな実例を目にしているが、この「すっぱいブドウ」の心境に「いつかバチが当たるに違いない」という心境は相通じるものがある。どちらも悔しい気持ちを無理やり納得させるものである。

 人は誰でも心の平穏を保っていたいものである。嬉しくてプラスになるのは構わないが、悔しくてマイナスになるのは堪らない。何とか悔しさを晴らしてプラスにしたいが、自分の力ではどうにもならない。そんな時、「神様はちゃんと見ているに違いない」、「いつか天罰が下るに違いない」と思うのは、心の平穏を保つためには効果のある考え方である。ただ、現実には天罰が下ることはない(たまたま下ることはあるかもしれないが、それはまったくの偶然である)。

 私はこうした「すっぱいブドウ」的な発想は封印するようにしている。食べられなかったブドウはきっと美味であるはずだし、諦める前に必死で何とかしようと創意工夫を重ねる。それでもダメだったら、潔く「美味しそうなブドウなのに食べられなかった」と敗北宣言を出す。酷いことをされても泣き寝入りをするのではなく、「何か一矢報いられないか」と考えるし、できないなら潔く「敗北宣言」を出して終わりにする。絶対に食べてもいないものを「すっぱい」とは言わない。何よりそれで慰められる自分ではない。

 「正しいことをしていれば神様が見ていてくださって、いつか幸せになれる」という考え方は、子供に対する教育的にはいいかもしれないが、そういうことはあり得ない。神様は存在していたとしても、1人ひとりの行いなんて見ていないし、その行いだって「自分から見た正しい行い」であって、他の人が見たら違うかもしれない。もっとも、人間なんでもドライに合理的に考えればいいというものではなく、「すっぱいブドウ」が必要な人もいるだろう。それはそれで否定はしない。ただ自分はそうではないというだけである。

 正しいことをするなら、それはいつか自分だけが天国に行くためではなく、いい事、正しいことをするのは自分が心地よいからであって、それ以上でも以下でもない。悪いことをすれば自分がカッコ悪くなるだけだし、人に恨みを買うようなことをすれば自分の居心地が悪いだけなので、そんなことはしない(ただし、それが「報復」なら話は別である)。あとでバチが当たるかもしれないから悪いことをしないのではなく、それがカッコ悪いからしないのである。それが証拠に、程度の軽い「ずるいこと」ならよくやっている。

 人生も後半戦に入ってくると、「自分だけが良ければそれでいい」とは思わなくなる。それは決して「きれいごと」ではなく、あえて人に恨みを買うくらいなら、あるいは人と揉めるくらいなら、多少損したっていいじゃないかという心境だろう。それは理屈ではなく、心の感じであり、どちらが心地よいかである。決して天国に行く準備ではない。人には慰めが必要であるが、自分にとってのそれは、「心の心地良さ」であって、天国や地獄や、「いつかバチが当たる」といったものではない。

 これからの残りの人生であるが、人には喜ばれる生き方をしたいと思う。きれいごとではなく、己の心地良さとしてそれを追求したいと思うのである・・・




【今週の読書】
  


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