2020年4月5日日曜日

論語雑感 里仁第四(その18)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。事父母幾諫。見志不從。又敬不違。勞而不怨。
〔 読み下し 〕
いわく、父母ふぼつかうるにはかんす。こころざししたがわざるをては、またけいしてたがわず、ろうしてうらみず。
【訳】
先師がいわれた。――
「父母に仕えて、その悪を黙過するのは子の道ではない。言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親をうらんではならない」
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 2,500年も前の孔子の言葉が残されているのも凄いなと思うが、一体どういうシチュエーションで語られた言葉なのか興味が沸くものがしばしある。この言葉もまさにそんな例である。孔子自身の親なのか、あるいは誰かの相談を受けてのものなのか。子供も本当に子供のうちは善悪などわからない。親の悪いところがわかるのは、それなりに分別がつくようになってからだろう。自分もそれなりに成長して経験を積んでくると、親のアラというものも見えてくる。そんな中で、親の悪行に対していかにすべきかと悩んだのかもしれない。

 親も人間だし、それぞれ1人の個性を持っている。考え方もそれぞれである。当然、善行ばかりということもないだろうし、時には人知れず何かやっているかも知れない。孔子は「悪」と言っているが、親が何か悪事を働いているという事ばかりとは限らない。もしかしたら石油ショックの時にトイレットペーパーを買い占めたりという類のことはあったのかもしれない。さらにもっと広く、「考え方の違い」ということまで含めると、それは多々あるだろう。

私が生まれたのは、両親がともに27歳の時である。つまり、常に私より27歳年上なわけである。幾つになっても自分より27歳年上なわけであるが、それは両親が今の私の年齢の時には、すでに私は28歳であったことを意味する。当然小・中・高校、そして大学時代は、両親は今の私よりも若かったことになる。その時々の親の様子を覚えているが、今の自分より若かった両親は、今の私より未熟だったかもしれない。「あの時あんなことを言われた」という記憶も、今の自分より未熟な夫婦だと考えれば、また見方も違ってくる。

今でもよく母親とは議論をする。母親の意見に対して、「それは違うよ」ということはよくある。年の功では27年の差があるとしても、こちらも人生を積み重ねて広く学んできている。知識も知恵もそれなりに備わっていれば、年の功以上のものもある。私の方が教えることもあるし、それなりに判断できることもある。自然と「言い負かす」ことが多くなっている。ただ、それで気分がいいかと言うとそうではない。どうしても不満が残っているように思えることもある。

孔子の言葉は、そんな時の自分に当てはまるものなのかもしれない。「言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめること」。すなわち、ただ己の正しさを前面に出して親の意見を押しつぶすのではなく、優しく噛み砕いて説明する態度である。親には親なりの価値観があるわけであり、時に知識が不足していることもあるだろうが、そういう価値観は尊重しなければならいと改めて思う。

幸いなことに我が両親は、犯罪行為はもとより、道徳的に如何なものかと思うようなことはしていない。このコロナウィルス騒動下にあっても、マスクやトイレットペーパーやその他の日常品の買い占めをすることもなく、穏やかに暮らしている。もちろん、聖人君子というわけではないだろうが、子の立場からして諌めるようなことはない。それがありがたいことである一方、自分も子供に諌められるようなことはないようにしないといけないと思う。

 孔子が2,500年前に語った趣旨とは違うのかもしれないが、現代流に己の事情に鑑みてみれば、そんなことを思ったりするのである・・・



Sasin TipchaiによるPixabayからの画像 
【今週の読書】
  




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