2019年11月4日月曜日

監視社会の是非

 先日、『正義の教室 善く生きるための哲学入門』と言う本を読んだ。哲学をわかりやすく解説してくれることで気に入っている著者の本である。この本の中で、主人公の通う高校には、「見守り君」と言う監視ロボットがおかれていることが説明されている。かつていじめが発生し、その対策として導入されたもので、これにより生徒は四六時中監視下にあるのである。

 これはもともと、功利主義の提唱者ベンサムの提唱した刑務所のアイデアだそうである(最も当時監視カメラなんてなかったから監視体制である)が、そう言えば最近は町中至る所に監視カメラが設置されている。かつては監視カメラなどと言えば、特別に警備を要する所に設置されるという感じであったが、今や一般のマンションのエントランスや商業施設を始め、至る所にある。さらに車にはドライブレコーダーが搭載され、世の中うっかり何かやってもしっかり記録されるようになりつつある。

 先日閉幕したラグビーのW杯では、微妙な判定になるとTMOというビデオ判定が行われる。あらゆる角度から問題のプレーが再現され、人間のレフリーが捉えきれないところまで細かく判定される。これは公正という意味では間違いがなく、レフリーの微妙な判定によって不満が残るという後味の悪さを解消する役に立っていると思う。今はSF映画の中でしかないが、いずれ世の中はあらゆるところで映像が撮られるようになるかもしれない。こういう「監視社会」は、果たして善か悪かどちらだろうか。

 例えばある場所で犯罪が起こったとする。すると、現場での様子がきっちりと映像に残され、それどころか犯人の逃走する様もすべてトレースされ、その結果、犯人はあっという間に捕まる。こうなると、未解決事件や犯罪そのものも激減する気がする。実際、ボストンマラソンの爆破テロでは、現場の様々な映像解析の結果、犯人が特定されているし、あながち荒唐無稽な話ではない。監視されていると聞くと、なんとなく気持ち悪い気がするし、大々的に導入しようとすると共産党あたりは真っ先に反対するだろう(なんでも反対するからなぁ)

 しかし、よくよく考えて見ると、犯罪のない社会の実現という意味ではこの方法が一番かもしれない。例えば、憎い相手ができて殺してやりたいと思っても、大抵の理性のある人は思いとどまる。それは、本当にやってしまったらそのあとの刑事的・社会的制裁を考えられるからであるが、それがなければどうだろうか。「やっちまえ」となるかもしれない。また、例えば道端で10万円拾った時、周りに人がいたら交番に届けるだろうが、誰もいない夜道だったらどうするだろうか。自分自身に問いかけてみても、「交番に届ける」と断言する自信はない。

 監視されていなければ正しい行動が取れないというのも問題がありそうであるが、では監視されていなくても人は正しい行動が取れるのだろうか。一見、「取れる」と答えたいが、自分自身に当てはめてみると心もとない。そもそも誰が見ていなくても正しい行動が取れるかどうかは、よほどしっかりとした芯(考え方)がないと難しいと思う。昔の人は、「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」と教え諭した。これも考えてみれば「監視」である。「神様が見ている」という「監視システム」によって正しいことをさせようとしたものと言える。

 私の例で言えば、これまで痴漢をしたことがない(当然のことで別に威張れることではない)。今後もすることはまずない(たぶん)。それはなぜかと言うと、痴漢をしている自分の姿というのを想像してみると、これがみっともないからである。その昔、「ジエームズ・ボンドのような男になりたい」とずっと思っていた(今でも思っている)。少しでも理想に近づきたいと思うが、ジェームス・ボンドはまず痴漢をしない。となれば、自分もそんな格好の悪いことはできない。痴漢をするくらいなら堂々と口説けばいいと思っている。そういう「心の中の基準」があると正しい行動は取れるかもしれない。

 道端の10万円の例でいけば、これはまた違う理由がある。まず道端に10万円が落ちているという事態はありえない。そのありえないことがあるのは何か裏があるかもしれないとついつい考えてしまう。例えば陰でドッキリカメラが様子を撮影しているかもしれない。ポケットに入れたところをお茶の間に流されたら格好悪いことこの上ない。美女が笑顔で寄ってきたら心の中で警戒警報を最大限に鳴らすのも同じだが、ありえないことが起こった時は用心すべきなのである。世の中悪趣味な行為が横行しているし、十分気をつけないといけない。

 結局のところ、自分は心の中から正しい人間とは程遠く、人から見た自分の姿を想像して正しい行動をとろうとしていると思う。そういう意味では、「監視されないと正しい行動が取れない」と言えるのかもしれない。そうならないようにするためにはもっと修行が必要だし、今から修行していたら完成する頃には人生が終わってしまうだろう。いずれ監視カメラのネットワークが張り巡らされた世界が到来するのかもしれない。それで秩序が保たれるのであれば、あえて受け入れたいと思う。「誰かが見ている」という力を借りてでも正しい行動が取れるのであれば、それもいいかもしれない。

 人は他人の目がなければ正しい行動が取れないのか。そうではないと思いたいが、もしも他人の目がなくても大丈夫であるならば、他人の目があっても尚大丈夫だとも言える。結局、他人の目が必要な人は必要ということなのかもしれない。SF映画のような監視カメラのネットワークが張り巡らされた社会になったとしても、身を正して行動できればいいだけであると言える。まぁ、せめて格好つけて常に正しい行動を取るようにするだけはしていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】

   
    

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