2019年8月29日木曜日

本気!

毎週末、深夜に1人映画を観るのを楽しみにしているが、先週末観た映画は安藤サクラ主演の『百円の恋』であった。『万引き家族』を観て安藤サクラの演技力に注目し、その経緯から観た映画である。この映画もまた安藤サクラ全開の映画であった。この映画の中で、安藤サクラ演じる主人公は、32歳独身で、実家にこもっている見るからにどうしようもない女。それがひょんなことからボクシングを始めるのである。

 最近、ボクシングジムも経営の安定化のためだろうが、ダイエット目的の女性のトレーニングを受け入れている。初めはジムの人たちもそんな扱いで主人公を受け入れる。どう見ても運動音痴な主人公が教えられるまま体を動かすが、どうにもこうにも様にならない。運動音痴の人はそもそも体の動かし方がぎこちない。パンチもどうにも不格好なのである。

 それがある時、心に火が付く。猛然とボクシングの練習に身が入り始める。そうすると、頭の中はボクシングのことばかりになり、アルバイト中もそれが頭から離れない。時間があるとシャドーボクシングをしたりする。もちろん、ロードワークも精力的にこなし、みっともなくたるんでいた体が引き締まり、シャドーボクシングも実にスピーディーに華麗にこなす。これは演技でなどできないだろうから、実際に猛練習したのだと思う。ストーリーも面白い映画だったが、安藤サクラも凄い映画であった。

 映画はともかく、やっぱり何事につけ、何か事を成し遂げようとした時、あるいは極めようとする時、一番重要なのは「やる気」だろうと思う。そのものに対するPASSIONとも言えるが、これこそが最も重要である。一度火が付くと、24時間心が稼働する。何をしていてもそれが脳裏を過る。アルバイト先のコンビニで、ちょっと空いた時間に安藤サクラがシャドーボクシングを始めたようにである。

たとえば人間、道を歩いていても、意識があるなしで大いに異なる。例えば「赤」を意識すると、信号やらセブンイレブンの看板のラインやら、駐車場の車のテールランプやら、普段目にしているはずなのに気がつかなかった「赤」いものがやたらと目に飛び込んでくる。それと同様、意識のアンテナが立った途端、普段は見過ごしていたものの中に、これは使えるかもしれないとヒントになったりするものが目についたりする。

私も高校からラグビーを始めたが、本当の意味で心に火がついたのは大学に入ってからだった。それまでも練習は真面目にやっていたが、普段の練習時間に加えてやっていたのは、先輩から言われた家でのトレーニングだけであった。それが心に火が付くとそれだけでは満足できなくなる。練習時間の一時間半前にグラウンドへ行き、1人黙々と筋トレをするようになった。テレビで試合があればそれを見て、いいプレーがあればそれを真似ようとした。日常生活の1つ1つがトレーニングに結びついた。何一つ人に言われずにである。「好きこそものの上手なれ」という諺があるが、好きになれば(=心に火がつけば)どんどんと向上心にかられて貪欲に求めていくから必然的にうまくなっていくのである。

これは仕事でも言える。心に火がついたら、言われなくてもどんどんと吸収していく。本を読んだりセミナーに行ったり、人に会いに行ったりもする。朝早く出社し、遅くまで残業するかもしれない。当然、「9時から5時まで」の人とは差はついていく。そんな人の自伝は数多くある(そんな人だから自伝を書くぐらいにもなるわけである)。働き方改革の流れを歓迎し、アフターファイブに関心が高い人にしてみれば、「バカじゃないの」と思うかもしれないが、のめり込んでいる本人はまったく苦にしていない。

逆に言えば、子供に勉強をさせようとしたら、塾へやるだけではダメだと言うことである。大事なことはいかにして「心に火をつけるか」。子供の場合はそこまでいかなくても、そこそこ興味を持って楽しく取り組みさせるか、である。そのあたりを理解できない世の母親は、子供の尻を叩いて塾へ行かせる事しか知らない。それでうまくいくケースならいいが、そうでなければ、塾へ行っても成績は伸びない。机に座っているからと言って、頭の中に入っているかどうかはわからないのである。

我が家の息子は来年受験生。妻は塾へ行かせ、家では机に向かわせることばかり考えているが、私としては「いかに息子の心に火をつけるか」に関心がある。それさえできれば、あとは放っておいても勝手にやるだろう。それが一番、望むべき理想の姿である。ただ押し付ければ反発もあるだろう。途中で嫌になるかもしれない。大事なのは心に火をつけることなのである。うまくできるかどうかはわからないが、コミュニケーションを取りながら導いてあげたいと思うのである・・・


  

【本日の読書】
 新聞という病 - 門田隆将 新・考えるヒント - 池田 晶子




2019年8月26日月曜日

優越感

ご近所に住むAさんとBさんは互いに同じ年のお子さんを持つママ友である。両家のお子さんとも同じ小学校に通う同級生であり、ともに中学受験をした。同じ中高一貫校である。Aさんのお子さんは合格したが、Bさんのお子さんは残念ながら不合格で、そのまま地元の公立中学に進学した。その後、高校進学に際し、Bさんのお子さんは頑張って難関高校に合格した。さらに3年後、Aさんのお子さんは難関大学にストレートで合格。Bさんのお子さんは現役合格を果たせず、今年浪人中である。

何せご近所のことゆえであるが、AさんがしきりにBさんのお子さんの状況をママ友に聞きまわっているという。どうもBさんのお子さんの進学先をかなり気にしているようである。というのも、中高一貫校の受験では、見事我が子が合格したが、高校でBさんのお子さんがAさんのお子さんの通う中高一貫校より偏差値の高い難関高校に合格したことで、どうもライバル視しているようなのである。中学で感じた「優越感」を高校で覆されたというわけである。

その関心は勢い次の大学受験に向き、我が子が無事難関大学に合格したことで「ライバル」の動向が気になって仕方がないというところらしい。個人的には我が子の学歴ではなく、自分の学歴で比較したらと思うのだが、人というのは何かにつけ「優越感」を感じたいものなのかもしれない。ご近所で似たような家に住んでいるから、おそらく生活レベルでは同じようなご家庭同士。差がつくとしたら、愛しい我が子となるのかもしれない。さらに我が子の通う学校が偏差値の高い学校であれば尚更なのだろうと思う。

個人的には、「くだらない」と思う。私などは子供がどこに行こうが構わないし、たとえ優秀な学校に行っても、それだけでは大したことはないと思うから自慢する気にはなれない。しかし、人にはこうしたどこかで「優越感」みたいなものを持ちたいと誰もが思うものなのではないかと思う。個人的にはそんな「優越感」など持たないようにしようと意識しているが、やっぱり心くすぐられるところがあるのも事実であるし、果たしてどこまでできているだろうかと思わなくもない。

そうした優劣に対する感情は誰もが感じることだと思う。自分より偏差値の高い学校に行っている人には引け目を感じるし、逆に低い学校に行っている相手には優越感を感じる。それは学校だけではなく、勤務先だったり、所属するチームだったりするかもしれない。また、同じ会社でも、たとえば出世で差がついていたりしても同じかもしれない。そうした優劣の感情はくだらないと思いつつ、気にならないと言えば嘘になる。私自身、銀行員時代も後半になると、出世ではだいぶ同期との間で差はついていたし、その差には心中穏やかならぬものを感じていたのも事実である。

そういう優劣に対する感情はどうしたら克服できるのであろうかと考えてみる。特に「劣る」方である。それはとどのつまり「開き直る」しかないような気がする。下手に隠すことなく堂々とオープンにすることである。たとえば、私も銀行を辞めて従業員10名の中小企業に転職した。会社の規模から言えば大したことはないが、人に聞かれれば堂々と教えている。下手に見栄など張るから心苦しくなるからである。実際、そうして大っぴらに語っていれば、クラス会に出て大手企業の要職にある友人と会っても卑屈に感じることはない。

大事なのは卑屈にならず堂々としていることではないかと思う。そしてそうあるためには、根拠となる考え方がないといけないかもしれない。私の場合、中小企業でも社長と共に会社を動かしているという自負がある。そういうものがあると、卑屈にはならないで済む。国産車に乗っていても高級外車に乗っている人に劣等感を感じないのは、「たとえお金があっても外車は買わない」という信念だ(負け惜しみとも言うかもしれない)。世の中、国産車(大衆車)に乗っている人の方が多いわけだし、気にしないと決めてしまえばラクである。

そうした優劣感覚は、結局のところ考え方次第だと思う。下手に見栄を張れば窮屈になるし、下を見て優越感を持てても、必ず上には上がいるわけだし、そうなると上を見れば卑屈になってしまう。そうであれば、上だろうが下だろうか平常心で接することこそが解決策であり、我が子だって他所の子だって、「どこの学校に通っているか」ではなく、「どんな学生生活を送っているか」で競うべきだと思う。どんな学校に行っていようと、我が子が楽しそうに通って充実した学生生活を送っているのならそれだけで誇らしく思いたい。

頭では十分理解しているが、それを日々実生活の中で実行できるか。なかなか難しいところではあるが、「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、日々意識していたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 人間失格 (新潮文庫) - 治, 太宰 Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法 - ロルフ・ドベリ, 安原 実津 日本共産党の正体 (新潮新書) - 福冨 健一





2019年8月22日木曜日

論語雑感 里仁第四(その3)

〔 原文 〕
子曰。惟仁者能好人。能惡人。
〔 読み下し 〕
()()わく、(ただ)仁者(じんしゃ)のみ()(ひと)(この)み、()(ひと)(にく)む。
【訳】
先師がいわれた。
「ただ仁者のみが正しく人を愛し、正しく人を悪(にく)むことができる」
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 仁を備えた者のみが、「正しく」人を愛し、「正しく」人を憎むことができるという孔子の言葉。ここで言う「正しく」が一体どういう意味であるのかはよくわからない。そもそも何が「正しい」のかは難しいところ。人は誰でも自分自身の人生の主人公であり、その中では常に自分が正しいものだからである。本来の孔子が意図したところはわからないし、それは専門家の領域であるが、ここでは思うがままに雑感を述べてみたい。
 
 「正しい人の愛し方」は何となくわかる。では「正しくない愛し方」というのはどういうものであろうか。お金を対価とした愛情だろうか。何らかの打算に基づいた愛情だろうか。女性が結婚相手を選ぶ時、定職についていない愛するイケメンと一流企業に勤めている好きでもない男と比べ、打算で後者を選んだような場合であろうか。結婚は愛ではなく安定を求めてするものという考えの持ち主であれば、そういうケースもあるだろう。でもそれを「愛」と言えるかという問題もある。

すると愛とは何かという問題になる。個人的には「愛」とは無償のものであり、「条件」がつくものではないと思う。そう考えるのであるならば、打算に基づいた愛は愛ではなく、愛とは言えないものを「正しくない愛」と言うことはできないと思う。それと同様に、今度は「憎む」ということは、本来が「悪」であり(だから孔子も「悪」という言葉を使っている)、「正しくないもの」こそがその本質だと言える。つまりそういう意味では「正しく憎む」ということはできないはずである。

考えてみれば、「愛」の反対が「憎しみ」であり(マザー・テレサは「無感心」だと言ったらしいが)、それ自体が「正」と「悪」と同様対語である。「正」でない「正」がなく、「悪」でない「悪」がないように、「正しくない愛」も「正しい憎しみ」もないと思う。もっとも、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある通り(ちなみにこれも孔子の言葉らしい)、人に対しては常に愛を向け、憎しみを向けないということはあるだろう。

また、愛の形もいろいろである。たとえば、人は大勢の人を愛することができる。だからと言って、奥さんがいる男が、奥さんを愛しそれと同じくらい愛人を愛するというのは、ちょっと違う気もする。「できない」とは思わないし、十分可能ではあるが、それが「正しい」かと問われると、YESとは答えにくい。それこそが「正しくない愛」と言えるのかもしれないが、それはあくまでも一夫一婦制の世界での話であり、一夫多妻制の世界では「正しくない愛」ではない。

 また、「罪を憎んで人を憎まず」にしても、やっぱり罪を犯すのは人であり、情状酌量の余地はあると言っても限界がある。よく犯罪に対する弁護で、「悲惨な家庭環境から犯罪に走った」という説明がなされるが、悲惨な環境にあった者がすべて犯罪者になるわけではなく、そこは踏みとどまるところで踏みとどまれなかった事実があり、特に被害者からすれば憎しみは緩和されにくい。やっぱり「正しく憎む」というのは、観念的にはあるかもしれないが、現実的にはあり得ない気がする。

 本来、孔子がこの言葉でどんな事を言いたかったのか、大変興味深いところではあるが、なかなか2,500年を経ての訳語からそれを探るのは難しいのかもしれない。この頃、「正しく愛されたい」と強く思う身として、そんなことを考えたのである・・・




【本日の読書】
 Think clearly 最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法 - ロルフ・ドベリ, 安原 実津 あらゆる悩み・不満・ストレスが消える! 最強の人生相談〈家族・結婚・夫婦編〉―ビジネスの成功にも共通する 人間関係、深すぎる40の教訓 - ミセス・パンプキン, ムーギー・キム





2019年8月19日月曜日

考えないこと

神宮外苑花火大会で花火暴発、男性1人が軽いやけど
2019/8/10 21:43
10日午後8時ごろ、東京都新宿区の明治神宮外苑で開かれた神宮外苑花火大会で、打ち上げた花火が上空で破裂せず、観客の近くに落下して暴発する事故があった。警視庁四谷署によると、会場周辺にいた観客とみられる男性1人が軽いやけどを負ったが、搬送はされていないという。
日本経済新聞
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 このところ、「考える」という事の重要性を考えている(考えることはやはり大事だ』『考えるとは』『考えること)。今、密かに個人の最大関心事である。「人の振り見て」ではないが、考えていないことに対する危うさをひしひしと感じるからでもある。

 冒頭のニュースでちょっと気になったのは、「来年の開催については未定」という一言であった。事故があれば当然、原因究明があって再発防止策がある。だが、一方で「中止」という判断もある。中止してしまえば、もう事故は起こらない。だが、これは「思考停止」そのものだと思う。もちろん、再発防止策をいろいろと検討し、その結果事故は不可避となれば中止という判断もおかしくはない。ただ、「臭いものには蓋」的な判断で中止とするのは思考停止に他ならない。

 こうしたことは、普段でもよく身の回りで見聞きする。「そもそもやらなければ平気」「持っていかなければ平気」という判断をしている。よくよく聞けば、リスクに備えて対策をとればよかったりするものもあったりする(具体的事例が書けないのがもどかしい)。本人は「あれこれ考えるより確実」だと主張しているが、それが「思考停止」だとは気がついていない。リスクはどこまであって、それにはどういう備えをすれば良いのか。それをきちんと理解すれば、十分可能なのにである。

 考えてみれば、自分は昔からそうだった気がする。従来からのアマノジャッキーな性格も過分にあったが、大学受験に失敗して浪人した時、「宅浪」という選択をしたのもそうであった。周りからは「予備校に行った方が良い」と親戚からも言われたが、頑として意地を通した。宅浪を決意したのは、ライバルに対する対抗心が一番の理由であったが、論理的に考えても大丈夫という判断があったのも事実である。つまり、「現役生に比べ受験に関係ない余計な勉強をしなくていいし、時間もたっぷりある」から現役生よりも有利な立場にあるという考えである。
 
 そういう理論的な根拠があったから意地を通せたというところがある。事実、根拠なき自信より根拠ある自信の方がはるかに自分を信頼できるし、強くあれる。しっかりした考えはこの上なく大事だと思う。それは交渉ごとにおいても当てはまると思う。私は比較的交渉ごとには強いと思っている。それはやっぱり交渉にあたっていろいろな展開をシミュレーションして臨むからだと思う。同僚などは、深く考えずにしなくても良い妥協をして最安値で売らされたという苦い過去がある。

 そんな話をすると、「自分には無理」という意見もあるが、考えるということはそんなに難しいことではなく、「どうするべきか」と頭の中で疑問を立ち上げ、それに対する回答を探し求めることに他ならない。仮説を立てて検証してみるもよし、誰かにアドバイスを求めるも良し、本屋でヒントになりそうな本を探して読んでも良いし、「問いを立ててそれに答える」という作業をひたすらすることでしかない。それが苦もなくできるのは、もともと考えることが性に合っていたということかもしれない。

 今の課題は、いかにして同僚にそんな「考える」スタンスを身につけてもらうかの啓蒙である。年上の人もいるし、なかなかやり方は難しい。されど、そこをなんとか「考えて」みたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」 - アルバート=ラズロ・バラバシ, 江口 泰子 あらゆる悩み・不満・ストレスが消える! 最強の人生相談〈家族・結婚・夫婦編〉―ビジネスの成功にも共通する 人間関係、深すぎる40の教訓 - ミセス・パンプキン, ムーギー・キム






2019年8月15日木曜日

考えること

地銀、様子見・指示待ちは問題 金融庁長官と会見
金融庁の遠藤俊英長官は日本経済新聞のインタビューに応じた。厳しさを増す地方銀行の経営者に対し、他行の動きや当局の意見を気にする様子見をやめ、主体的に改革を進めるよう強く求めた。収益力の回復が見込めない地銀には、業務改善命令で改革を促すことを視野に入れる。かんぽ生命保険の不適切な保険販売には厳しく対処する考えを強調した。
2019/8/6 19:00 日本経済新聞
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 以前、日本の銀行を揶揄したジョークを聞いたことがある。ある銀行の頭取が、会議で結論を求められ、「金融庁は何と言っているのか?」「他行はどうしているのか?」「前例はどうなっているのか?」と聞いたという。当時銀行員だった私は、「まったく笑えないジョークだ」と思ったものである。上記の記事は、それが本当にジョークではないことを表している。

 どうしてそうなのかと問われれば、答えは簡単。「正しいことをやろうとするから」。否、「間違えないようにしようとするから」である。「金融庁の指示に従った」のであれば、あるいは「他行もやっているのならば」、または「過去にもやったやり方であれば」たとえ間違ったとしても、十分言い訳ができる。逆に独自に新たなチャレンジをして失敗すればまったく言い訳できず、「すべて自分の責任」になる。間違えないようにしてつつがなくトップになった頭取には、怖くてとても決断などできないだろうと思うのであろう。

 だが、このスタンスを笑うことのできる人はかなり少ないだろう。なぜなら、個人に置き換えてみれば、まさにサラリーマンなどはこの通りの行動をとっている人が大半だろうと思うからである。現に私の在席していた某メガバンクでは8割型はこういう思考回路で仕事をしていたと思う。「上司はどう思うだろうか」「周りのみんなはどうしているだろうか」「過去はどうやっただろうか」。それで、「間違えないように」慎重に仕事をしているのである。

 その根底にあるのは、もしかすると「そうは言っても何をすればいいかわからない」という感情かもしれない。確かにそれはあるだろう。世の中で何かヒット作がうまれるとたちまち類似品が出回ることは珍しくない。個人的にはそんな二番煎じはプライドが許さないところであり、自分ではやりたくない。しかし、どうしてもやるということであれば、せめて「どこかに違いを設けよう」と考える。ただ、世の中そんな考えばかりでないから、安易な模造品やニセモノが横行するのであろう。

 こうした事態を避けるために大事なことは、「常に考え続ける」ことだと思う。私も常にアイディア溢れるアイディアマンというわけではないが、とりあえずやってみるべきことはすぐに思い浮かぶ。思い浮かんだらまずやってみると、良いかダメかなんとなくわかる。それによって、また次の手を打ってみる。それでうまくいくとは限らないが、「動けば景色が変わる」もので、動き続けていくうちにそれなりの所にたどり着けそうな気がする。

 また、「何をしたらいいかわからない」という人は、「考える」ということをしていないように思える。ちょっと23分考えてみて「思いつかない」とさじを投げてしまう。それで「考えたけどダメ」と結論を下す。「考える」とは頭の中で「思い浮かべる」ということではなく、「疑問を持つ」ことであり、「その疑問を解消すること」だと思う。考えてわからなければ、ネットでヒントを検索してみたり、本屋へ行って何かないか眺めてみたりすればいい。そういうことをせずに、頭の中だけで23分あれこれ思い浮かべてみても何も出てこないだろう。

 いくつか「こんなのはどうだろうか」というのがあれば、とりあえず試しにやってみる。それらをやるだけやってダメなら、そこで初めて「ダメ」と思えばいい。冒頭の銀行のような組織だと、「試しにやってみる」なんてまず無理なのではないかと思う。みんなの同意をとっていたらまとまらないだろうし、先頭に立って引っ張る気概のある人がいないとまず無理だろう。そして横を見るのが得意な銀行員はまずそういう気概を持った者はいない。「お役人にそんなこと言われてていいのか」と思うも、まぁ無理なのではないかと思ってみたりする。

 中小企業でも、会議となれば黙って下を向いている人がいる。自分で考えることをせずに社長の意見=指示を待っているのである。自信がないのかもしれないが、少しずつやり方を説明していこうかと考えている。長年、そういうことに馴染んでいない人には難しいかもしれないが、これも自分の力を延ばすことにつながると思えばやってみる価値はある。そのあたり、自分も「考えて」みたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」 - アルバート=ラズロ・バラバシ, 江口 泰子 新・考えるヒント - 池田 晶子






2019年8月12日月曜日

大人になること

現在、中学2年になる我が息子。この頃よく母親と喧嘩をしている。母親というものは、ただでさえ口うるさいもの。だんだんと体も大きくなり、自我も芽生えてくるとなるとどうしても自分の意思に反する母親の指示は疎ましくなるものである。私も覚えがあるが、次から次へと「あれしなさい、これしなさい」と言われるとイライラも募るだろう。挙句に、「うるさいなぁ」となり、「なんだ親に向かってその口の聞き方は!」となり、かくして喧嘩になるという典型的なケースである。

側で見ていて父親としてはどういう対応を取るべきか、は難しいところである。息子を諌めるべきか、母親を諌めるべきか(と言ってもこのオプションは現実的には取えない)。心情的には100%息子の肩を持っている身としては尚のこと難しい。息子は父親の目から見ても素直である(私と比べればである)。何より、母親の言うがまま習い事をしてきたし、今も塾へと通っている。夏休みも何やら夏期講習とかに通っているようである。私はと言えば、やはり母親に塾へ行くように何度も言われたが、断固として拒否し続けたものである。

素直なところはいいのだが、喧嘩の原因は野球の部活を終えて帰ってきた息子が、疲れて塾へ行く前にやるべきことをやっていなかったというもの。「そんなことなら部活をやめろ」と言われて腹を立てたようである。私であれば即、「塾をやめろ」というところだが、そう面と向かって言えないところが心苦しい。そこで息子に話をすることにした。以下は、体は私とほぼ同じ身長になったのに対し、まだまだ精神の成長が発展途上な息子に対する私のアドバイスである。

「大人と子供の違いは何か」と言えば、それは体の大きさではなく、「自分で決めて、決めたことに対して責任を持つ」ことだと考えている。子供に対しては、親が何でも決めて指示をする。朝何時に起きなさいから始まり、着替え、ご飯を食べて学校へと送り出す。帰ってきたら、手を洗い、宿題をし、食事をして風呂に入り寝る。すべて親が指示するのは、それは「親に責任があるから」。親には子供をきちんと学校に通わせる責任があるのである。

もしもこの部分で大人になりたかったら、話は簡単。朝、学校へ行く時間から逆算し、自分で目覚ましをかけて起きて着替え、ご飯は自分で決めた時間に母親に用意してもらう。時間が来たら学校へ行き、帰って来たら言われなくても必要なことをこなし、時間が来たら寝る。これをやれば母親も何も言わなくなる。そうした生活が習慣化されれば、例えば夜遅くまで起きていても、「そろそろ寝た方がいいんじゃないの」と「提案」はされるかもしれないが、「寝なさい」とは言われなくなる。もちろん、翌朝起きられなければ元の木阿弥。だけどきちんとできるなら何も言われない。この点で、もう大人になった(大人の行動が取れる)のである。

中学生は微妙な時期。「もう中学生」であり、「まだ中学生」である。「もう子供ではない」が、「まだ大人ではない」。子供から大人になるのは、法律では18歳とか20歳とかあるが、ある日突然大人になるものではなく、少しずつ成長していくもの。社会人になっても子供みたいな行動を取っている大人だっているし、中学生でも大人びた立ち居振る舞いのできる子もいる。それは誰が決めるものでもなく、自分で決めるもの。早く大人になりたければ、自分で決めて行動すればいいわけである。

部活と塾の両立が難しければ、どちらかを選べばいい。できないものをやる必要はない。それを考えて行動するのもまた大人への道。この夏場に練習などしたら、帰って来てから勉強などする気も起きないだろう。なら塾へは行かないと母親に伝えればいい。「勉強はどうするの?」と聞かれたら、「今の成績をしっかり維持して、来年受験で部活を引退してから頑張る」とするのでもいい。もちろん、そう宣言したらそうしなければならない。それが「責任」というものである。

決めるにあたって、わからなかったらアドバイスを求めればいい。「塾へ行け」という母親と「塾へは行かなくていい」という父親。「どっちなんだ」と怒る必要はなく、両方の意見を聞いて自分で考えて決めればいい。それが大人である。そうして「自分で決める、決めたら責任を取る」という範囲を少しずつ増やしていけば、母親にうるさく言われることはなくなる。私もそうやって「母親を黙らせてきた」し、息子もそうやって「母親を黙らせれば」いい。

息子は神妙な顔をして私の話を聞いていたが、果たしてどう思ったであろうか。自分も息子に対しては、「黙って見守る」よりもいろいろと「語って聞かせたい」と考えている。受け入れられるかどうかはわからないが、何より自分の息子だし、自分が経験してきた諸々のことを伝えるだけは伝えたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 仕事と心の流儀 (講談社現代新書) - 丹羽 宇一郎 「日本一の添乗員」が大切にする接客の作法 - 原 好正





2019年8月8日木曜日

論語雑感 里仁第四(その2)

〔 原文 〕
子曰。不仁者。不可以久處約。不可以長處樂。仁者安仁。知者利仁。
〔 読み下し 〕
()()わく、不仁者(ふじんしゃ)(もっ)(ひさ)しく(やく)()るべからず。(もっ)(なが)(らく)()るべからず。仁者(じんしゃ)(じん)(やす)んじ、()(しゃ)(じん)()す。
【訳】
不仁な人間は、長く逆境に身を処することもできないし、また長く順境に身を処することもできない。それができるのは仁者と知者であるが、仁者はどんな境遇にあっても、仁そのものに安んずるがゆえにみだれないし、知者は仁の価値を知って努力するがゆえにみだれない。
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 ここでは、逆境と順境における仁者と不仁者の違いを述べている。逆境に耐えられないというのはよくわかる。逆境とは思うに任せない状況。「こんなはずでは」とか「なんで俺だけ」とか、己の置かれている状況がままならなければ我慢ができないだろう。一方、一見何もかも順調そうに見えても、その中で不満を抱えているというのはよくあること。一流企業に勤めていても、昇進で遅れていたり、希望の部署につけなかったり。周りから見れば羨ましいように見えても本人にとっては不服というのは大いにあることだろう。順境に耐えられないというのはそんな状況が考えられる。

 逆境にあって身を処することができないのはわかるとしても、ではどうして順境にあっても身を処することができないのだろうか。その前に「逆境」「順境」の定義がそもそもあるかもしれない。なぜなら、「逆境」「順境」とは「誰にとっての」という定義が必要かもしれないからである。傍から見れば「順境」でも、本人にとっては「逆境」ということはあるかもしれない。例えば、11ドル以下で暮らす発展途上国のスラムの住人から見れば、我が国に生まれ住んでいるだけで「順境」だと言えるかもしれない。

 就職に失敗して希望の会社に入れず、悶々として慣れない仕事をしている者から比べれば、自分の行けなかった企業に就職している同級生は羨ましいかもしれない。しかし、当の同級生は仕事のプレッシャーで鬱状態になっていて、こんなことなら別の会社に行くんだったと後悔しているとしたら、とても幸せとは言えないだろう。そう考えると、「順境」とは周りから見てのものではなく、あくまでも「本人にとっての」と言えそうである。逆に言えば、発展途上国のスラムで11ドル以下の生活をしていても幸せを感じている人はいるだろう。つまり、「逆境」もまた然りと言えそうである。

 そうなると、「逆境」にあっても希望に満ちていて、「順境」にあってはその幸せを噛み締められる人ならば、その身を処することができそうである。それがここで孔子が「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」と語っていることなのかもしれない。見方を変えれば、本人が「順境」と思うならそれが周りから見れば「逆境」に見えていても苦にならないと言えるだろう。「気の持ちよう」とはよく言ったもので、「順境」なのか「逆境」なのかは、とどのつまり本人が決めることなのかもしれない。

 まとめてみれば、孔子の言う「仁者」とは、「逆境にあってもそれを自分にとって良い試練の時と捉えられ、順境にあってはその環境に感謝できる人」と言えるのかもしれない。そういう風に考えれば、その逆である不仁の人は、「逆境にあってはその理不尽を恨み、順境にあってもまだ物足りないと不平をこぼす」人だと言えるだろう。常により良い状態を目指すのは悪いことではないが、「逆境こそ順境」という風に考えることも「逆境」を乗り越える術なのかもしれない。

 今の自分が逆境にあるのか順境にあるのかは大して重要なことではなく、「それをどう受け止めるか」が重要であるということができるだろう。「今が試練の時」とそれを楽しめる気持ちがあれば、世の中は少し過ごしやすくなるかもしれない。孔子の語った内容とどこまで一致しているかはわからないが、自分としてはそんな考え方を持っていたいと思うのである・・・

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自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる 
船というのは、荷物をたくさん積んでいないと、不安定でうまく進めない。同じように人生も、心配や苦痛、苦労を背負っている方がうまく進めるものである。
笑うことが多い人は幸福であり、泣く事が多い人は不幸になる。
アルトゥル・ショーペンハウアー




【本日の読書】
 仕事と心の流儀 (講談社現代新書) - 丹羽 宇一郎 堕落論 (280円文庫) - 坂口安吾



2019年8月5日月曜日

万座温泉

昨年の夏休みに母を連れて草津温泉へ行ったが、今年は万座温泉を選んだ。なぜ万座温泉かと言えば、そのあと従兄弟に会いに行く予定があったため、近い地域ということがその1つの理由であるが、もう1つの理由は、「過去に行った温泉で最も温泉らしかった温泉だったから」である。もう20年近く前になると思うが、銀行の元同僚らとスキー旅行に行った時の記憶が強く残っているのである。
 
 当時はスキーが目的であったため、温泉に対しては予備知識ゼロであったのであるが、乳白色のお湯に不用意に浸かり、結婚指輪が真っ黒になって驚いたものである。建物から外を通って部屋へ戻るのだが、タオルがたちまち凍ってしまったのも驚きであった。そんな「原体験」があったがゆえに、もう一度行ってみたいとなったのである。できれば当時泊まった温泉旅館と思ったが、もうその名前は記憶になく、やむなく選んだのが「万座ホテル聚楽」である。

白糸の滝
 北軽井沢から鬼押ハイウェー、万座ハイウェーと有料道路を通って登って行く。有料道路と言っても良いのは景色ぐらいという程度の道路(でも建設は大変だったのだろうから有料もやむなしなのだろう)を通る。途中に自然遊歩道なんかがあるからちょっと車を止めて楽しむのも良い。林の中は気温も低く東京の災害的な暑さから逃れてきた身としては誠に涼しく、ウグイスの鳴き声が木々の間によく響き渡り、川のせせらぎとともに心地よく心身ともにリラックスできる空間である。久しぶりに訪れた白糸の滝のあたりはご時世なのか中国語が飛び交う。

所々の禿山は硫黄の影響か?
 そんな林間コースを抜けて万座温泉に入ると、途端に硫黄の臭いが車内に入ってくる。禿山も目につくようになるが、硫黄の成分の影響なのだろう。なんと標高1,800メートル。真夏に温泉といっても、あたりは涼しいので気にならない。肝心のホテルであるが、ホームページによると3つの魅力「PH3.2乳白色の高濃度硫黄泉」「標高1,800ⅿの食彩」「広々洋室から寛ぎの和室まで」を歌っている。しかし、残念ながら満足できたのは温泉だけであった。

バイキングの夕食は、グルメの妻に鍛えられた身としてはそれほどでもなく、部屋もよかったのは広さだけ。温泉効果もあったのだろうが、夜中に暑くて目が覚めてしまったが、部屋には扇風機しかない。エアコンがないのは「必要ないから」という理由を後で聞いて納得したものの、寝られない暑さの中で我慢しきれず窓を少しだけ開けて寝たが、外気はあまりにも涼しく風邪を引くかもしれないとおっかなびっくりであった(それでも適度に冷えて朝までなんとか寝られたのである)

絶景露天風呂
自慢の絶景露天風呂は自慢するだけあり、なかなかのもの。明るいうちは自然と一体化した気分に浸れるが、夜は真っ暗な闇が眼前に広がり、ちょっと恐怖感を覚える。一方で、晴れていればまだしも、曇っていたため星が見られなかったのが残念極まりなかったものである。それにしてもあかり1つない闇を見ていると、昔の人がその中に恐怖を見たのもよくわかる。ドラキュラや狼男が昼間に現れない理由もよくわかるというものである。闇夜は、昔の人に自然と恐怖を起こさせたのであろうことが容易に理解できるのである。

チェックイン後と夕食後、そして朝食前と例によって三度入浴。体からは硫黄の臭いが滲み出る。ここのところ感じていた右肩の痛みや、騙し騙しラグビーの練習をこなしていたかかとの痛みもなんだか和らぐ。普段、腰の痛みを訴えている母も温泉に入ると痛みがなくなりよく寝られると喜ぶ。まぁ、自分のことより年老いた母親が喜ぶ姿が何よりである。子供達も妻とも休みのスケジュールが合わず、今年も家族バラバラであるが、それはそれで良いかもしれないと感じている。

翌日は従兄弟と深夜まで飲み明かす。昼間は寂れた地方の町なのに、夜は全盛期の昭和の雰囲気を残したスナック街もなかなか良い雰囲気。就職した頃は、仕事帰りにスナックに連れて行かれ、みんなで騒ぎタクシーで帰ったものだが、最近はそんなこともなくなってしまった。美人ママさんに適度におだてられ、ほろ酔い気分でホテルに戻る。まるでタイムスリップしたかのような「昭和の夜」を満喫する。こういう夏休みもまた良しではないかと思う。

 今は亡き祖父母と御代田の叔父叔母の墓参りをし、災害的な暑さの東京に戻る。まだ夏休みは残っているが、しばし余韻に浸りたいところである。また来年も同じパターンの休みがいいかもしれないと思う。そのうち海外旅行に行きたいとも思うが、いろいろ将来に楽しみを残しておきたいと思うのである・・・