2019年8月8日木曜日

論語雑感 里仁第四(その2)


〔 原文 〕
子曰。不仁者。不可以久處約。不可以長處樂。仁者安仁。知者利仁。
〔 読み下し 〕
()()わく、不仁者(ふじんしゃ)(もっ)(ひさ)しく(やく)()るべからず。(もっ)(なが)(らく)()るべからず。仁者(じんしゃ)(じん)(やす)んじ、()(しゃ)(じん)()す。
【訳】
不仁な人間は、長く逆境に身を処することもできないし、また長く順境に身を処することもできない。それができるのは仁者と知者であるが、仁者はどんな境遇にあっても、仁そのものに安んずるがゆえにみだれないし、知者は仁の価値を知って努力するがゆえにみだれない。
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 ここでは、逆境と順境における仁者と不仁者の違いを述べている。逆境に耐えられないというのはよくわかる。逆境とは思うに任せない状況。「こんなはずでは」とか「なんで俺だけ」とか、己の置かれている状況がままならなければ我慢ができないだろう。一方、一見何もかも順調そうに見えても、その中で不満を抱えているというのはよくあること。一流企業に勤めていても、昇進で遅れていたり、希望の部署につけなかったり。周りから見れば羨ましいように見えても本人にとっては不服というのは大いにあることだろう。順境に耐えられないというのはそんな状況が考えられる。

 逆境にあって身を処することができないのはわかるとしても、ではどうして順境にあっても身を処することができないのだろうか。その前に「逆境」「順境」の定義がそもそもあるかもしれない。なぜなら、「逆境」「順境」とは「誰にとっての」という定義が必要かもしれないからである。傍から見れば「順境」でも、本人にとっては「逆境」ということはあるかもしれない。例えば、11ドル以下で暮らす発展途上国のスラムの住人から見れば、我が国に生まれ住んでいるだけで「順境」だと言えるかもしれない。

 就職に失敗して希望の会社に入れず、悶々として慣れない仕事をしている者から比べれば、自分の行けなかった企業に就職している同級生は羨ましいかもしれない。しかし、当の同級生は仕事のプレッシャーで鬱状態になっていて、こんなことなら別の会社に行くんだったと後悔しているとしたら、とても幸せとは言えないだろう。そう考えると、「順境」とは周りから見てのものではなく、あくまでも「本人にとっての」と言えそうである。逆に言えば、発展途上国のスラムで11ドル以下の生活をしていても幸せを感じている人はいるだろう。つまり、「逆境」もまた然りと言えそうである。

 そうなると、「逆境」にあっても希望に満ちていて、「順境」にあってはその幸せを噛み締められる人ならば、その身を処することができそうである。それがここで孔子が「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」と語っていることなのかもしれない。見方を変えれば、本人が「順境」と思うならそれが周りから見れば「逆境」に見えていても苦にならないと言えるだろう。「気の持ちよう」とはよく言ったもので、「順境」なのか「逆境」なのかは、とどのつまり本人が決めることなのかもしれない。

 まとめてみれば、孔子の言う「仁者」とは、「逆境にあってもそれを自分にとって良い試練の時と捉えられ、順境にあってはその環境に感謝できる人」と言えるのかもしれない。そういう風に考えれば、その逆である不仁の人は、「逆境にあってはその理不尽を恨み、順境にあってもまだ物足りないと不平をこぼす」人だと言えるだろう。常により良い状態を目指すのは悪いことではないが、「逆境こそ順境」という風に考えることも「逆境」を乗り越える術なのかもしれない。

 今の自分が逆境にあるのか順境にあるのかは大して重要なことではなく、「それをどう受け止めるか」が重要であるということができるだろう。「今が試練の時」とそれを楽しめる気持ちがあれば、世の中は少し過ごしやすくなるかもしれない。孔子の語った内容とどこまで一致しているかはわからないが、自分としてはそんな考え方を持っていたいと思うのである・・・

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自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる 
船というのは、荷物をたくさん積んでいないと、不安定でうまく進めない。同じように人生も、心配や苦痛、苦労を背負っている方がうまく進めるものである。
笑うことが多い人は幸福であり、泣く事が多い人は不幸になる。
アルトゥル・ショーペンハウアー




【本日の読書】
 




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