2018年7月22日日曜日

論語雑感 八佾第三(その6)

季氏旅於泰山。子謂冉有曰、女弗能救與。對曰、不能。子曰、嗚呼、
曾謂泰山不如林放乎。



()()泰山(たいざん)(りょ)す。()(ぜん)(ゆう)()いて(のたま)わく、(なんじ)(すく)うこと(あた)わざるか。(こた)えて()わく、(あた)わず。()(のたま)わく、鳴呼(ああ)(すなわち)(たい)(ざん)(りん)(ぽう)にも()かずと(おも)えるか。

【訳】
家老の季孫氏が泰山の祭をしようとした。孔子は、当時季孫氏の執事していた弟子の冉有を呼んで「泰山の祭は魯公だけに許されるもので、大夫の季孫氏がやるのは非礼極まりない。お前からそのことを申し上げて、主人の非礼を思い止まらせることはできぬのか?」と云った。冉有は「最早決まったことですので、如何ともできません!」と答えた。孔子は「ああ、泰山の神が林放にも劣るというのか。林放でさえ礼の本質を学んでいるというのに、嘆かわしいことだ」と云った。
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論語もこの『八佾第三』に入ってからどうも「秩序」が重視されている。要は「部をわきまえる」ということを言葉を変えて再三孔子は語っている(『八佾第三その1『八佾第三その2)。こうまで繰り返されると、よほど秩序が乱れていたのだろうし、孔子もそれを気にしていたのだと思う。では、なぜ人は部をわきまえなくなるのであろうか。

「泰山の祭」がどのようなものかはわからないが、それは「魯公だけに許され」た特権だったのであろう。『八佾第三その2の時は「下克上」として考えたが、もう1つ考えられるのは「憧れ」であろうか。人は誰でも他人がやっていることを見ると、「自分でもやってみたい」と思うものであり、こういう考えも李氏にはあったのかもしれない。

高校時代、我が母校である小山台高校では運動会が年間最大と言っていいほどの大きなイベントであった。中でも応援団は存在の際立つステイタスであり、誰もがとは言わないものの、やりたいと思う者は多かったと思う。私はと言えば、ラグビーをやっていたし、しかもキャプテンだったし、やりたいと言えばかなり当選確実は高かったと思う。しかし、元来アマノジャッキーな私は毛頭そんなつもりはなく、やりたがっている者からは不思議な目で見られたものである(結局、3年時の運動会は校舎建て替えで中止になってしまった)。人によっては「やりたい」と思う応援団は、私には対して魅力はなかったのである。

 応援団は誰でもなれるが、世の中そういうものばかりではない。例えば車である。かつて「いつかはクラウン」などというキャッチフレーズがあったが、車にステイタスを求めるのは今でも同様で、そこそこの金を稼げばフェラーリやポルシェ、ベンツといった高級外車や国産でもレクサスなどに乗りたいと思うようになるのであろう。かく言う私は、もちろんアマノジャッキーなので迷いなく国産の大衆車を選ぶ(それ以前に高級車など買えないだろうと言う議論は置いておきたい(涙))

「泰山の祭」がどのようなものだったかはわからないが、それを身分を超えて仕切ろうとしたということは、身分は別として、自分にはそれを取り仕切る力があるということを誇示したいという気持ちが絶対あったのだろうと思う。フェラーリを買うことは、それを買いたいという「憧れ」と、買えるようになったという自信の為す表れであろう。特に金を出せば(誰でも)買えるものではなく、特別の身分の者にだけ許されたことであれば、その果実は何よりも甘美であったはずである。

さらにその果実には、「希少性」が要求されることは間違いない。誰もがそれを手にしていたらきっとそれを求めることはなくなるだろうと思う。例えばフェラーリやポルシェやベンツに乗っている人の中で、どれだけ本当にその車に乗りたがっているのだろうかと思うことがしばしばある。例えば、誰もがみんな乗っていたら、それでも乗りたいと思うだろうか。特にベンツに乗っている人は、「ベンツに乗っているというステータス」に乗っているような気がしてならない。

海外の高級車は、日本車からすると破格の高額である(フェラーリ488GTBの価格は3,000万円超である)。では日本の大衆車と比べて、絶対的な性能でその価格差である10倍以上の差があるかといったら絶対にない。性能的に言っても、我が家のプレマシーとベンツの「Mercedes-AMGS65 Cabriolet 34,700,000円」との間に、その価格差13.8倍に比する性能差があるかと言えば絶対にない。ゆえにベンツを買う人は、やはりその「ステイタス」を買っているような気がしてならない。

そういう「見栄」なのか「憧れ」なのかは悪いことかと言えば、個人的にはそうは思わない。「いつかはベンツ」という励みも必要だと思う。「泰山の祭」は、それがそうした「憧れ」にとどまらず、「下克上」の匂いが漂っていたから孔子は危惧したのであろう。乱世の世では少しでも秩序を求めるものであるから、それも当然なのであろう。

現代日本でも、そういう例があるのだろうか。ひょっとしたら権力がらみではあるのかもしれないが、幸いなことに自分は無縁である。縁があったとしても、応援団や車に興味がないのと同様、そういうものに興味を示さないような気がする。それはそれで自分の心地よい性分である。

 これからもそういう自分であり続けたいと思うのである・・・







【今週の読書】
  
   
    
    

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