2018年4月18日水曜日

夢は何かと問われたら・・・

早いもので、我が家の娘もこの春で高校3年生。高3と言えば、受験である。私も人並みに大学を受験し、高3の年には志望校1校に絞って受験したものの、残念ながら不合格。そして1年間の宅浪生活を送り、2度目のチャレンジでリベンジを果たした。そしてそのまま人並みに4年間の大学生活を送ったのである。我が子はどうなるのだろうと思っていたが、まずは進路として「文系」を選択したようである。

なぜ文系かと言えば、「理科系の科目は得意ではないから」という消極的な理由。それで将来何かしたいものはあるのかと尋ねると、今のところはこれといったものはないようである。小さい頃は、将来何になりたいかと尋ねるといろいろと答えてくれていたものであるが、高校生ともなって現実がわかってくると、だんだんと答えに窮してきて、今将来の夢は何かと尋ねても本人もわからない状態である。

それが嘆かわしいかと言えば、そうは思わない。そもそもであるが、自分も高3の頃はそうであったし、実をいうとそれ以降も夢など持ったことはない。高3の時は、それなりに進路を考え、映画『ジャスティス』の影響もあって何となく弁護士になりたいなと思って法学部を目指した程度である。それも強い希望というほどでもなかったから、大学で法律を専門的に学んだ結果、「自分には合わない」と思ってあっさり変更してしまった。

「夢がない」と言えば、何だか寂しいようなつまらない人間のような気もするが、ではつまらない生活、つまらない人生を送って来たのか、今も送っているのかというとそうでもない。仕事は楽しいし、週末にラグビーをやったり、好きな映画を観たり、本を読んだりとそれなりに充実している。「夢は何ですか?」と問われると、「何もない」としか答えようがないが、「人生の目的は何ですか?」と尋ねられたら、今のような「充実した毎日を送ること」と答えるだろう。もっとも現状パーフェクトには程遠く、まだまだ「ああしたい、こうしたい」といった類のことは多々ある。

自分がそうだからかもしれないが、「夢がない」、「将来何になりたいかわからない」と語る娘に対して、「情けない」とは思わないし、心配にもならない。あればあるに越したことはないが、その程度である。「何となく受験する」というムードだが、それでもいいと思う。受験もそれなりに大変であるし、それを乗り越えるのも何らかの成長につながる試練になるだろう。4年間で次の方向を決めればそれでいいと思う。

就職だって「どんな仕事をしたいか」なんて、なければないでも良いと思う。自分のことを振り返ってみても、銀行員になりたくてなったわけではないし、かといってつまらない銀行員生活を送ったわけでもない。それなりに仕事は楽しかったし、そこで得た「経営マインド」は、中小企業に転職した現在、自分の強力な強みになっている。すべて「結果論」だ。もちろん、やりたいことがあればそれに越したことはないが、ないからと言って悲観することもない。目の前の仕事を前向きにこなすだけで、会社にも十分貢献できるし、生活だってしていける。趣味が見つかれば、そちらに人生の楽しみを求めたって十分だと思う。

そもそも大事なのは、夢ややりたいことなどの以前に、「しっかりと生きていける力」である。それは現代では「職業」に他ならない。特にこだわりがなければ、何でもいいと思う。江戸時代は生まれた時にもう職業は決められていた。農家の子は農業をやるしかなく、武士の子は武士の子で、(長男であれば)お城での父親のお役目がそのまま自身のお役目になったのである。それに比べると、現代社会では(採用戦線を勝ち抜く必要はあるが)何でも好きな仕事が選べる。たとえ不本意な就職だろうと、その仕事で創意工夫して熱意を持って働けば、働き甲斐とより多くの給料をもらえるようになるだろう。そういう風に頑張ればいいと思う。

「どこの大学に入らないとダメ」だとか、「どのレベルの就職先でないとダメ」だとかいう事はない。勉強なら勉強、仕事なら仕事と目の前のものにしっかり取り組むだけで十分だと思う。大事なのはしっかりと自分の人生を生きていくことであって、夢を追う事ではない(もちろん、追う夢があるならそれが一番だ)。最低限、そこをしっかり理解しておいてほしいと思う。

 もしも娘に(あるいはその先息子に)、将来について相談されたなら、そんな風に答えてあげたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 
   
    

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