2018年4月1日日曜日

論語雑感 為政第二(その22)

子曰。人而無信。不知其可也。大車無輗。小車無軏。其何以行之哉。
()()わく、(ひと)にして(しん)()くんば、()()なるを()らざるなり。大車(たいしゃ)(げい)()く、小車(しょうしゃ)(げつ)()くんば、()(なに)(もっ)てか(これ)()らんや。

【訳】
人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進ができよう。人間における信もそのとおりだ
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ここで言う「信」とは、素直に「信用」と言う意味でいいのだろう。「人は信用が大事」と言うのは、今更ながら当たり前過ぎて何も言えない感がある。だが、時としてその信用が簡単に扱われているような気がする。よく「裏切られた」とか「あんな奴だと思わなかった」と言った類の言葉を聞くが、それは裏を返せば「安易に信用し過ぎた」とも言える。人は簡単に信用してもいいのかと言う問題である。

私は、「もしも自分が犯罪を犯すとしたら、どんな犯罪をどうやって実行するか」についてよく妄想(あるいはシミュレーション)する。そういう時に、一番大事なのはやはり「仲間」だと思う。それも「○○のプロ」といった類の仲間ではなく、文字通り「信用できる」仲間である。安心して背中を任せられる仲間でなければ、懲役のリスクを冒して犯罪などできないだろう。

例えば先日観た映画『クライム・スピード』では銀行強盗をする一団が登場するが、現場でちょっとした計画外の行動から警官隊が到着してしまうシーンで、見張り役が真っ先に逃げてしまった。これで残された仲間の逃走が難しくなる。そしていざ車に乗り込みスタートする直前、主人公は兄が逃げ遅れているのを知って危険な店内に1人戻って行った(他のメンバーは当然そのまま逃げた)。兄弟だからこその絆ゆえの行動であるが、ここで簡単に見捨てるようなメンバーとは、既に組んだ時点で失敗と言える(映画では仲間入りを断れなかったのであるが・・・)

また、昨夜観た映画『ザ・タウン』では、やはり警官隊に囲まれて絶体絶命の中、メンバーの1人は囮を申し出た。仲間の1人は既に前科二犯であり、捕まれば「三振アウト法」で終身刑確定であった。囮を申し出た男はまだ大丈夫。仲間を逃がすための囮で、「口は割らないから安心しろ」と言い残して飛び出していく。逆に言えば仲間のためにこうした行動が取れるかと言うのが重要だと思う。

こういう仲間となら犯罪も安心してできるというものだが、それはあくまでも妄想の話。しかし、現実においてもそういう「仲間意識」はある。古くは就職の時。いろいろとある選択肢のなかで、まだ甘ちゃん学生だった私には判断が難しかった。最終的には、当時都銀の中でも順位の低かった銀行に決めたのだが(ランクの高い住友銀行や三菱銀行の選択肢もあった)、その決め手になったのが、大学の先輩の存在だ。「この人と一緒ならいいや」と思ったのである。

こういう意識はやっぱり常に持っていて、銀行員時代はもし独立するなら「信頼のおける仲間と」と考えていた。そして4年前に転職した時は、吹けば飛ぶような中小企業に迷いはしたものの、最終的には「今の社長となら心中してもいいか」と思えたから思い切ったということができる。財務内容がどうだとか、事業の将来性がどうかと考えていたらとても今の会社などに転職できなかっただろう。こちらは妄想ではなく、現実である。

考えてみると、「信用」とはこの割り切りとも言える。「この相手を信じて失敗したら仕方がない」と思えるかどうかである。そういう人とならあれこれ悩むこともなく付き合うことができる。逆に言えば、そういう信頼感のない相手であれば、常に「万が一」「想定外」を想定しておかないといけない。「裏切られた」と嘆くのはバカで、初めから裏切られる可能性も考慮に入れておかないといけない。当然ながら、そういう相手とは末長い損得抜きの付き合いなどできはしない。

 仕事上では仲良くお付き合いしている相手でも、そのレベルまで信頼できる相手となるとほとんどいない。そういう相手は、仕事では得られないということだろう(元同僚には何人かいるか・・・)。そういう信頼・信用できる友人は大事にしていきたいと思う。人には信用が大事というよりも、信用できる人は大事にしたいと、むしろ思うのである・・・





【今週の読書】
  
 

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