2017年10月29日日曜日

国家の秘密とは

先週、毎週楽しみにしている趣味の映画鑑賞で『スノーデン』を観た。数年前にアメリカの情報管理の内幕を暴露した元政府職員エドワード・スノーデンの事件を映画化したものである。個人的に興味を持っていたので、興味深く鑑賞した。

映画は映画で事件のあらましを知るという意味でも、単なるエンターテイメントとしても面白いものであったが、事件そのものはどう考えたらいいのだろうかとふと考えてみた。スノーデン氏は、現在米政府からは犯罪者として扱われており、今はロシアに半分亡命みたいな形で滞在している。公式的には「犯罪者」なのであるが、それでいいのだろうか。

スノーデン氏は、CIANSAといった政府機関が、「テロ防止」という名目のもとで、ほとんどすべての人の情報をプライバシーなどお構いなく収集していることについて、「問題だ」と感じてその事実を公表したわけである。いわば「義憤」である。これによってアメリカ政府も批判にさらされ、情報収集の範囲を見直している。その意味では、スノーデン氏の告発も意味はあったわけである。だがそれは「国家機密漏洩」でもある。

一般的に国家機密漏洩はやはり重大犯罪であろう。7年前、わが国でも中国漁船衝突事件で、政府が非公開とした衝突時の映像を海上保安庁の職員がYouTubeにアップするという事件があった。当時、マスコミは「義憤」と捉え犯人擁護の論調を張っていたが、私は個人的に許されざる問題だと思った。その考えは今でも変わっていない。

一般的に何を持って「秘密/非公開」とするかの判断は微妙である。政府が「非公開」と判断したものを、いちいち個人がそれはおかしいと勝手に公開していたら、それはそれでとんでもないことになるだろう。政府が「非公開」と判断したものを個人が勝手に暴露するなんて、基本的に許されざる犯罪であろう。

だが、スノーデン氏の公開した情報はあまりにも衝撃的であった。あらゆる個人のメール等のやり取りから始まり、同盟国も含めて他国政府機関内の情報や、嘘か本当か日本にはアメリカを裏切った場合に備えてインフラを機能させなくする仕組みまで構築しているという。これは明らかに「許容範囲」を超えているわけで、政府も批判を浴びて今ではそのやり方を(表向き)修正している。スノーデン氏の行動にも理があるわけである。そういう場合まで、罪に問われなければならないのであろうか。

最近は、企業でも内部告発によって、「都合の悪い事実」が表に出て大変な騒動となることが出てきている。それらは大抵「都合の悪い真実」であるが故に、内部告発制度も有用なものだと思う。経営者もそれを考えたら下手なことはおいそれとはできず、いい牽制になっていると思う。もっとも牽制になるのは、「まともな感覚」を持った経営者だけだろうが・・・

今後、ほとぼりが冷めてスノーデン氏が帰国できるのかどうかはわからない。それはアメリカの市民の判断にかかっているのだし、私がどうこういう問題でもない。ただ、果たして自分が同じ立場となった時にどう行動するべきだろうかを考えると、なかなか難しいものがある。政府が明らかに間違っていると思っても、犯罪者となって国に帰れなくなるのを覚悟で行動できるだろうか。そんな重大な立場にないことを幸せに思う。

そんなことをツラツラ考えていたら、ケネディ大統領暗殺事件の非公開資料の秘密指定が解除されるというニュースが飛び込んできた。トランプ大統領もいいことするじゃないかと楽しみにしていたら、やっぱり一部は非公開指定が維持されてしまった。そうなると中身にはますます期待が膨らんでしまう。ふと、スノーデン氏みたいなのが出てきて暴露してくれないだろうかと不謹慎な考えが脳裏に浮かぶ。もしもそんな人物が出てきて全部ぶちまけてくれたなら、あれこれ難しいことを考えるまでもなく心から支持してしまうと思う。

やっぱり、「筋論」も大事だが、好奇心には抗えないと思うのである・・・




【今週の読書】
 HIGH OUTPUT MANAGEMENT - アンドリュー・S・グローブ, 小林 薫






2017年10月26日木曜日

論語雑感 為政第二(その12)

 子曰。君子不器。
()(いわ)く、君子(くんし)()ならず。
【訳】
先師がいわれた。君子は機械的な人間であってはならぬ
********************************************************************************

 これも「君子は器ならず」として、論語の中では比較的知られている言葉だと思う。考えてみると、その意味はわかっているようでわかっていない。改めて調べてみると、
『器物は各自一つの用に適するだけだが、君子は一芸にすぐれるばかりでなく、どんな用にも融通が利く』(広辞苑)
というような説明があった。上記の訳よりもこちらの方がしっくりくる。

 また、別のところを調べてみると、
『茶わんも器であり、どびんも器である。とはいえ、茶わんは茶わんの働きしかなく、どびんはどびんの機能しかもたない。立派な人たるには、そのように、器であってはならない。かたよらず、全人的完成をめざすべきだ。』(『中国古典名言辞典』・講談社学術文庫)
というのもあった。どちらも当然ながら同じような意味であるが、上記の訳よりはわかりやすい。
 
 自分なりに咀嚼してみると、私自身が日頃心掛けている「臨機応変」に相通じているように思う。私の意識している「臨機応変」は、例えば「札幌に行く」という目的があったとして、羽田まで行ったら搭乗予定の便が悪天候で運休となってしまったという時に、「では新幹線で行こう」とか、新幹線もダメなら「レンタカーを借りよう」とか、時間がかかってもいいなら「フェリーで行こう」とかして目的を達することである。そういう「臨機応変」が、「器ならず」に当たるように思うがどうだろうか。
 
 また、「一つのことにかたよることなく、幅広くその能力を発揮するべき」と言っても、普通の人はオールマイティというわけにもいくまい。私自身も当然そうである。ただ、それが個人の能力だけを問われる個人プレーならともかく、組織で仕事をする場合は「衆知を結集する」ということができる。自分に足りない能力はできる人に補ってもらえばよい。その時には、いろいろな人がいる中で、柔軟に適する人を受け入れて連携プレーができればいいように思う。

 今の会社に来た時も、少ないメンバーでどうしようかと考えた。営業をやるにも自分ひとりだけでは足りない。そこで社交的な女性を営業に連れ出したらうまくやってもらえるようになった。リフォームでデザインをする人がいなくて外注先をさがしていたが、ふと社内の別の女性にやらせてみたら、本人も好きなようでうまくやってくれるようになった。外注も不要となり、余分なコストをかけずに済んでいる。自分でやるばかりが能ではない。

 自分でもある程度「何でもやる」という心掛けは必要だと考えている。我が社は毎朝みんなで掃除をするのだが、私はあえてトイレ掃除など一番大変な掃除を引き受けている。管理している部屋のクリーニングにも積極的に参加している。偉そうにふんぞり返っていては言葉に説得力もないだろうと思うからである。さすがに技術を伴うことはできなないが、素人でもできることは何でもやるつもりでいる。

 スポーツでも仕事でも、チームを率いる立場となったら、この「やれることはなんでもやる」というスタンスは必要だと思う。誰かに指示してやってもらうのもいいが、もしもうまくできなかったり、緊急に具合が悪くなったりした時には代わりにやらないといけない。「誰かやれ」もいいけど、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」(山本五十六)
であるなら、「やってみせる」ことができないといけない。

 そう考えると、やはりこの論語の言葉は真理である。
「芯は固く、言葉や行動は柔軟に」
これからもそういうつもりで何事にもあたりたいと思うのである・・・




【本日の読書】

 HIGH OUTPUT MANAGEMENT - アンドリュー・S・グローブ, 小林 薫 仮面の告白 (新潮文庫) - 三島 由紀夫




2017年10月22日日曜日

人口減少社会

 少子高齢化が進み、これから本格的に「人口減少社会」となる我が国。先日、『未来の年表-人口減少日本でこれから起きること-』という本を読んで一層その深刻さを理解したところであるが、先週取引先との雑談の中でこの話をしてきた人が2人もいて、みんな同じ本を読んでいるのだろうか、それともそれ以外のところで情報を得ているのだろうかと思いを巡らせてみた。

ある人は、これから日本も人口減少社会となるから、不動産マーケットはダメなのではないかという意見を述べてくれた。確かに、パイは縮小することになるのでこれまでと同じようにはいかないだろう。だが、では人口減少の影響を受けない他の事業に転換できるかというと、そんな業種はあるのだろうかと思う。トヨタだって(国内では)人口減少の影響は避けられないのである。

個人的には、我が不動産業界のそんな行く末を案じたりはしていない。不動産マーケットは縮小することこそあれどなくなることはない。要は縮小するマーケットでどう生き残って行けばいいのかを考えるだけである。のほほんとしていたら淘汰されるだろうから、熱意と創意工夫とで乗り切って行くしかないのである。

実は改めて本を読むまでもなく、身近なところでこの問題は感じていたと言える。父の生まれた生家は、祖父もとうに亡くなり、今は長男の伯父があとを継いでいる。私と同年齢の一人息子(つまりは私の従兄弟)がその次に控えているが、その従兄弟には子供がいない。一人っ子ゆえに伯父の家系、ひいては父の本家筋は従兄弟で絶えることになる。家屋敷は相続人もないことから国庫行きだし、墓は管理する者がいなくなることになる。

母方の本家も墓を継いだのは、本家の次男の伯父。その伯父は既に亡く2人の子供(私の従兄弟だ)はともに独身。もう50代となっているし、伯父の家もそこで絶えることになる。望月にある母方の祖父が自慢していた墓も守り手がいなくなることになる。それでいいのかと思うも今の時代「養子縁組」でもないだろうし、致し方ない。そう考えると、「家制度」が確立していた昔のシステムは、「継承」という観点からは優れていたと思う。

ただ、そういうことは何も我が一族に限った問題ではなく、日本全国いたるところに出てくる話だということである。従兄弟も独身貴族をいいことに、マンションを買って一人暮らしを楽しんでいるが、いずれそのマンションも相続人がいなくなって国庫行きとなるのだろう。たぶん、国庫もそういう資産がこれから増えて行くのだろう。ひょっとしたら、今国家財政を圧迫している国債残高も、それでだいぶ「チャラ」になるような気もする。

不動産マーケットは縮小して行くといっても、業者の中には、経営者が高齢化して後継者がいなくて廃業となるところも増えるだろうから、小さくなったパイを分捕り合うライバルも減ってさほど競争密度は変わらないかもしれない。土地が余れば、ウサギ小屋とバカにされたわが国でも庭付き一戸建てが普通になるかもしれない。あまり悪い面ばかり考えるのもいかがかと思う。

墓の問題も簡単に自分が引き受ければ済むという問題ではない。妻の実家の方もあるわけであり、しかも妻の妹には子供がいないため、事実上妻の実家を受け継ぐのは我が子供たちである。そうすると、我が子供達は理論的には4家の資産と墓とを受け継ぐことになる。資産といっても大したものは期待できないから、受け継いで嬉しいかどうかは微妙だ。

仮にすべて受け継いだとしても、我が子供たちが将来結婚できるか、そして結婚できたとして子供が生まれるかどうかもわからない。私も孫を持てるかどうかわからないわけで、持てなければ何れにせよ、4家もそこまでということになる。日本全国あちこちで多くの家系が絶えて行くのだろう。

自分が生きることのない未来の心配は子供達に任せるとして、せめて自分としては自分が90歳なり100歳なりまでの範囲での未来については考えていきたいと思う。と言ってもせいぜいが痴呆の要介護にならないようにしたいという程度である。そうならないようにできるのか、あるいはそうなっても迷惑をかけない程度に財産を残すのか。どうやら定年後はのんびり趣味になんて夢のまた夢ということになりそうである。

それもまたいいかもしれないと思う一方、残りの人生を楽しくだけは生きたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 経済は地理から学べ! - 宮路 秀作 仮面の告白 (新潮文庫) - 三島 由紀夫






2017年10月19日木曜日

競争

先日の事、家族との会話で娘が中学生の頃、テストで先生に成績順を教えてもらっていたことを聞いた。当時、娘が学校の定期試験で、学年で○位だという話は聞いていたが、それが「こっそり」聞いていたということは知らなかった。なんでも一般的には伏せられていたそうで、娘は担任の先生に個別に頼んで教えてもらっていたそうである。

その順位が実は毎回娘のテスト勉強に対するモチベーションになっていたという。自分の順位が上がれば嬉しいし、いい順位をキープできればそれも良し。親にも褒められるし、自分も気分が良いしということだったようである。そう言えば、それは自分も高校時代に同じ経験をしているのでよくわかる。ただ、その時は全員に発表されていたので、娘のようにこっそり聞くという努力は不要であったが・・・

考えてみれば自分の場合、勉強は嫌いではなかったが、それでも「好き嫌い」はあった。歴史や英語、倫理社会とか数学の一部などはわりと好きな科目であったが、物理や化学はできるなら避けて通りたい科目であった。好きなものはいいが、嫌いなものは勉強などしたくない。そんな気持ちを抑え、万遍なく勉強しようという意欲が出た要因が、「学年順位」であった。順位を上げたくて、上がるのが楽しみですべての教科を嫌がらずに勉強していたものである。

自分の力を上げるのに、「競争」が役に立つのは間違いのないところ。個人ならずとも企業や国すらも、競争のないところに進歩がないのは明らかであり、だからこそ「理想社会」であったはずの社会主義が失敗したのであろう。日本でも国鉄を始めとする国有企業の失敗を見ても明らかであり、年功序列が崩れたのも同様であろう。昨日と同じことを今日も明日も続けて問題がないという環境は、それ自体が問題なのだろう。

昔はテスト結果が張り出されて各人の順位が一目瞭然なのが当たり前だったと思うのだが、それがいつから否定されるようになったのかと思う。一時期幼稚園の運動会で手をつないでゴールなんてのがあったらしいが、やはり「競争」は個人でも世の中でも必要だろう。もちろん、競争の当事者になるのは大変なことだし、できれば競争などしたくないというのがみんなの本音だと思う。

競争は良いと思うのだが、やる気を削ぐのは「不公平」だろう。公平に競争して負けたのなら仕方がないが、例えば出世競争などは必ずしも公平とは言い難いものだと思う。もっともそれは敗者の感情であることは間違いない(逆に勝者は公平=「自分の実力」だと思いたいものである)。競争の効果を認め、それを導入しようとしたら、この「公平な評価システム」が不可欠で、それがないと逆にモチベーションを下げてしまうことになるだろう。

一方で、我々日本人のDNAとして、あからさまな競争は避けたいというものがあるのも確かだと思う。人を押しのけるということに抵抗を持つ人は少なくないと思うし、過剰な自己PRも然り。「謙譲」が美徳とされる我が国では、自分を必要以上によく見せることに抵抗感を持つのは私だけではないと思う。成績順などは、あまり人を押しのける感覚がないから、そこが心地良いのかもしれない。

進歩は必要だが、あまり人とは争いたくない。試験のような公平で努力の成果がわかりやすいものは素直に頑張れるが、出世競争のように評価基準が曖昧で、「押し退け感」を感じさせられるものは苦手なのは、私だけではないと思う。自らの進歩に必要で役に立ち、それでいて人を押し退ける必要がない。そんな競争なら大歓迎かもしれない。昨日より今日、今日より明日と少しずつ進歩していく・・・

「ライバルは昨日の自分」
今はそれを合言葉にしているのである・・・




【本日の読書】
 損する結婚 儲かる離婚(新潮新書) - 藤沢数希 ハリネズミの願い - トーン・テレヘン, 長山 さき





2017年10月16日月曜日

選挙を前にして

 いよいよ衆議院選挙が目前に迫って来た。個人的には二十歳になって選挙権を得て以降、何回かの例外は除いて真面目に投票に行っている。支持している政党や人はその都度変化していて、どこかの政党の固定支持者というものではない。それゆえだろうか、毎回よく考えているつもりではあったが、「なんとなく感」もあるところ。そんなわけで、今回改めて冷静に比較してみることにした。

私の選挙区は東京9区。小選挙区では4人の候補が立候補している。
候補者名
所属政党
現職
すがわら一秀
自民党
衆議院議員5期目
高松さとし
希望の党
練馬区区議会議員
原純子
共産党
党国会議員元秘書等
前田吉成
無所属
元警備員

 「4人しかいない」という事実に寂しい思いがするが、「期待していた」風見鶏議員木内孝胤氏が何と8区に転出してしまった。たぶん今回新たに立候補する候補者との調整なのだろうが、あまり自分の選挙区にこだわりを持っていないのだと思う。「らしくて」いいなと思う。

 その中で誰を選ぶかというと、やはりすがわら一秀さんだろうか。4人目の方は何かの記念かもしれないから比較候補にも入らないが、原純子さんはもらったパンフレットによると共産党の公約そのままで、特に惹かれるところはない。高松さとしさんは家が近所で親近感があるので、迷うところではある。

 すがわらさんと高松さんはともに「大江戸線」の延伸を公約に挙げている。ともに選挙区を意識してのものだと思う。基本的に国会議員は国政優先でやってほしいが、地元も多少は意識してほしいところ。その点、「7つの約束」のうち国政に関するものが1つしかない高松さんはやはり現職の区議会議員だからだろうか。地元的にはいいが、国政に出るなら目線を上げてほしいところである。その点、すがわらさんは「10の約束」のうち地元は1つだけなのはさすがバランスがいい。中でも「議員定数削減」は期待したいと思う。

比例代表区の政党は、「何となく自民党」なのだが、改めて感心のある公約を比較してみた。  
憲法改正
原発
消費税
興味のある公約
自民党
予定通り
外交等実績
希望の党
×
凍結
道州制
共産党
×
×
中止
税制改革
日本維新の会
?
予定通り
株式会社の農地保有
私の希望
×
凍結
甲乙つけがたし

 ちなみに「民進党の残骸」、「自民党と同じ」公明党、その他のよくわからない党は検討対象外とした。「改憲」「原発」「消費税」で比較すると、何と一番近いのは希望の党だった。これだけで決めるかどうかはわからないが、「何となく」ではなく、自分なりに根拠をしっかり持ちたいと思う。

 あれこれ比較してみて1つ気づいたことがある。それは比例代表の候補者リストを見ていてなのであるが、我が9区の候補者3名はいずれも比例候補者の上位に名前があるということである。ということは、たとえ小選挙区で負けたとしても政党の得票率によっては比例で当選する可能性があるわけである。あれこれ悩んでみたところで、結局みんな当選という可能性が高いと思う。

 これはこれでいいのかもしれないが、個人的にはこうした「重複」制度は廃止すべきだと思う。名前の売れていないうちは党の庇護の下で比例代表で議員となり、その後実績を積んだら名前で勝負というのがいいと思うが、我が身可愛い議員さんにとってはそれはやりたくないのかもしれない。それに是非実施してほしいのは、「比例で当選した議員は離党したら議員資格を失う」制度だ。比例で当選したのに平気で離党し、議員を辞めない人を見ていると、「国民はあなたを選んだのではない」と言いたくなる。政治家には是非とも「筋」を通してもらいたいと思うのである。

何はともあれ、来週までにしっかりと考え、投票に行きたいと思うのである・・・

【今週の読書】
 ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み - 近藤 宣之 仇敵 (講談社文庫) - 池井戸潤






2017年10月11日水曜日

論語雑感 為政第二(その11)

子曰。温故而知新。可以爲師矣。
()(いわ)く、(ふる)きを(たず)ねて(あたら)しきを()れば、(もっ)()()()し。
【訳】
先師がいわれた。古いものを愛護しつつ新しい知識を求める人であれば、人を導く資格がある
***********************************************************************************
論語の中でも、これは有名な言葉の一つである。「温故知新」という四字熟語として一般的にも広く知れ渡っていて、出典が論語だと知らない人もいるくらいだと思う。なぜそれほど広まったのかというと、やはりそれだけ真理を表しているからなのだと思う。上記の訳とは別に、「温故知新」は「昔のことをよく学び、そこから新しい知識や道理を得ること。また、過去の事柄を研究して、現在の事態に対処すること」と説明されている。(故事ことわざ辞典

論語など2,500年も前でもやっぱり「昔のことを良く学び」なんて言われていたのかと思う。そう言えば、エジプトでも出土した王朝時代の粘土板に「今の若者は」と嘆く様子が書かれていたという話を思い出したが、時代を経ても真理は変わらないものなのだろうと改めて思う。きっと、1,000年後も「温故知新」という言葉は残っているのかもしれない。

個人的に「温故知新」と聞くと、『コブラの著者である寺沢武一の「SFとは新しい瓶に入れた古いぶどう酒である」という言葉を思い出す。『コブラは、未来の宇宙を舞台にした物語だが、中身は海賊であるコブラが、悪の海賊組織ギルドと戦いを繰り広げるもので、SFというフィルターを外せばそこにあるのはかつての西部劇と同じものである。あるいは映画『スター・ウォーズ』 も同様であるが、が変わっても中身は同じということである。

これは一般的に「本質」というものが大事だということに他ならないと思う。私は常に「本質は何か」を意識するようにしているが、SFだろうが西部劇だろうが、「悪の組織がはびこる中で、流れ者のアウトローが悪を倒す」という本質の部分は同じであるわけである。逆に言えば、本質部分を押さえておけば、西部劇でも現代劇でもSFでも応用が効くということになる。

例えば、私はずっとスケジュール管理に手帳を使ってきたが、近年はスマホとPCを併用している。Googleカレンダーを共有にしておけば、会社のPCでも自宅のPCでもスマホでも同じスケジュール表(Googleカレンダー)を見ることができる。それはそれで大変便利なので重宝しているが、大事なのは「スケジュール管理がきちんとできるか」であり、それができるのであれば、スマホでなくても手帳でも手のひらに書いても良いわけである。なんでもスマホではなく、その「本質は何か」を考え、最適なものを選ぶことが重要なわけである。

逆に「やることリスト」は、手帳を使っている。iPhoneであれば「メモ機能」を使えばPCでも家のMacでも共有できるが、そうしないのは「手帳の方が便利だから」に他ならない。大事な本質部分は、「やるべきことを忘れずにやること」であり、そのために最適な手段が私にとっては手帳なのである。入力より書く方が早いし、繰越具合なんかもわかるし、同僚と共有する必要もないので、いまだに手帳を使っているのである。

本質を外した議論がとんちんかんなものになることは、日常よくあることである(【本質を見失うと・・・】)。「古きを温めて」とは、単に新しいから良し、古いからダメということではなく、古いものでも変わらぬ本質を見極め新しい事態に対応するということに他ならない。その本質は「本質を見極める」というところにあると思うのである。

今は、不動産業界という古い産業に身を置いているが、いずれ確実にやって来る人口減少社会を前にし、これからどうやって会社の舵取りをしていくか、は非常に大事なことである。それは単に「今までそうしてきたから」なんてことをやっていたら、たちまち淘汰されてしまうだろう。過去からの流れも大事であるが、何をするべきかの本質を見失わず、古くからの知見をいかに「新しい瓶に移していくか」が重要だろう。

誰も成功を保証してくれないが、そこは己と未来を信じてやっていくしかない。AirbnbUberなど、古いものと新しいものとを組み合わせたサービスが世の中には台頭してきている。そんな世の中で我が社も生き残っていかねばならず、そのためのアイデア、創意工夫は欠かせない。「古いぶどう酒」を大事にしつつ、「新しい瓶」を探す努力を怠らないようにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書) - 河合雅司 「歴史×経済」で読み解く世界と日本の未来 - 井沢 元彦, 中原 圭介







2017年10月8日日曜日

年のせい?

最近、怒りっぽくなったような気がする。自分で言うのもなんだが、もともと穏やかな性格で、人を怒ると言うことがどちらかといえば苦手としている方だと思っていた。それがここのところ相手を怒るケースが度々起こっているのである。その相手とは、家族でもなく、部下でもなく、仕事上で関わりあう相手である。

1つは我が社で所有するマンションの管理人である。部屋を賃貸に出すにあたり、入居者から駐車場を借りたいと言う申し出があり、こちらで管理人と事務交渉を行った。「電話で予約はできない」と言われ、ちょっと大きめのハイルーフ車だったことから空きが少なく、とにかく早くと思い、現地に申し込みに行った。ところが電話で「ある」と確認していたスペースはもうないと言う。

タッチの差で先に申し込まれたのかと思ったら、「話が進んでいる」と言う。「話が進んでいる」ということは、「申し込みが入った」ということかと尋ねると、そうではないと言う。よくよく聞けば、「申し込むつもりである」らしい。おかしいではないか。我々も申し込みをしたいと電話で告げたところ、「電話で予約はできないので現地で申し込め」と言われ、それでわざわざ申し込みに来ているわけである。なのにまだ申し込みをしていない他の人を優先させると言うのである。

思わず、その管理人さんと言い合いになってしまった。強い口調で言えば、相手も年寄りで「売り言葉に買い言葉」状態。その場はやむなく撤収したが、あとで上司である管理会社の担当者に状況を説明し、ルールの整備と徹底をお願いしておいた。肝心のスペースは、たまたま別のところが空いていてなんとか確保できたから良かったものの、あの対応は如何なものかと思うばかりである。

また先日は、会社の口座から電気料金の引き落としがあり、何処の分かわからないと経理に言われて東京電力に問い合わせをした。会社の情報を告げたところ、「登録がない」との答え。もしかしたらここの物件かと言う当てがあったので、それを告げたところ、「住所は」「契約者名は」「建物名は」と根掘り葉掘り聞いてくる。こちらもだんだんとイライラしてしまい、途中で答えるのをやめて引き落とし金額で調べてくれと問い直した。

ところがそれはできないと言う。「建物名を言わないと答えられない」と。しかし、そもそもこちらは何処の引き落としかわからなくて聞いているわけである。会社では不動産を多数保有、管理している。何処の分かわからないから聞いている。その建物かどうかわからないのである。最終的に引き落としの銀行、支店、口座番号で調べてくれたが、最後まで「次回から建物名を言わないと答えられないかもしれない」と電話口の若い女性は主張していた。

自分自身、相手に対し声を荒げるのはいい気分がしない。荒げると言っても、別に罵倒しているわけではなく、「それはおかしいでしょう!」と普通よりも大きな声で言う程度だが、なんだかスマートではないと思えてならない。よくよく考えてみても、おかしいのは相手だと思う。上記以外にもまだあるのだが、いずれにせよ、おかしいと思うことには過剰に反応してしまう感じがする。

人間、歳をとると怒りっぽくなると言う。それは頭が固くなって、それまでの思考パターンから外れると、「おかしい」と感じて怒るのではないかと思う。中にはその通りだと思うケースもあるが、自分自身怒っている方がおかしいが、それを指摘すると収拾がつかなくなるから黙っていると言うケースもある。上記の自分の行動も、ひょっとしたらそうかもしれない。それは自分では判断がつかない。

世の中、大企業でもサラリーマン化して考えずに仕事をしている人も多いから、おかしなことは起こったりする。今のところいずれのケースも自分に利があるとは思うが、もう少し穏やかに相手の非を正す方法があったかもしれないと思わなくもない。それは素直に反省しようと思う。もっとスマートに、それでいて相手に非を悟らせる言い方を工夫するべきだろうと思う。「俺は正しい!」と怒鳴り散らしても、周囲は良くはみてくれないだろう。

頑固なジジイにならぬように、それはそれで工夫したいと思う。ユーモアがあってスマートに、相手をギャフンと言わせる・・・
そんな男でありたいと思うのである・・・
 

 【今週の読書】
 再起動 リブート―――波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語 - 斉藤 徹 超AI時代の生存戦略 - 落合陽一 未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書) - 河合雅司






2017年10月4日水曜日

銃社会

アメリカ・ラスベガスでまた銃の乱射事件があって、何と今現在で死者59人だという。昨年、やはり銃の乱射事件があり、その時死者50人で「アメリカ犯罪史上最悪の銃乱射事件」と報じられていたが、その「記録」が1年も経たないうちに破られてしまったわけである。記録は破られるためにあるとは言われるものの、これはいかがなものかと思わざるを得ない。我が国でも最近、暴力団による射殺事件があったが、スケールがまるで違う。これはやはり「銃社会」のなせる業なのかと思ってみたりする。

こうした事件が起こるたびに、「銃規制」の声が聞こえてくるが、一向に進む気配がない。我々日本人の感覚からすると不思議でしかたないが、なぜ銃規制(さらに言えば廃止)ができないのだろうか。もともと、西部開拓史において広大な西部では警察による治安維持が困難で、自警するしかなかったという歴史的背景もあるのだろう。その点、我が国とは国民の武装という点で大きく異なる。

我が国もかつては農民がみな武装していて、それが「いざ鎌倉」となったら武器を手にして武士として戦に行ったらしい。それが戦国時代が終了し、豊臣秀吉が刀狩りを行って武器を持てるのが武士だけになり、さらに明治に入って廃刀令で武器を持てるのが軍と警察だけになったという経緯がある。今から思えばこういう歴史が銃のない社会になっているわけで、ありがたいと言えばありがたい。

ではなぜ今からでも銃を廃止できないのかと言うと、それは全米最強のロビー集団と言われる全米ライフル協会の存在もあるらしいが、専門家によると根底には「周りが銃を持っている中で自分だけ手放せない」という不信感があるという。「いっせーの、せっ!」で廃止すればいいような気もするが、アメリカのように膨大な数が出回っていると、なかなか簡単にはいかないのだろう。

お互いの信頼感があればまだしも、アメリカのような多民族国家でお互いに信頼しあおうというのも難しいかもしれない。我が身に当てはめてみても、隣に韓国人や中国人の家があったらはっきり言って信用はできない。確たる確信がなければ銃を手放す気にはなれないだろう。疑心暗鬼の世界で理想論は空しい。

そういう相互不信は、核廃絶が進まない理由でもある。オバマ大統領がノーベル平和賞をもらっても核廃絶に踏み切れないのは、「自分だけ廃止して相手が廃止しなかったら」という恐怖感だろう。おそらくどこも相手が廃止してそれを確認できたら自分も廃止するとしたいだろうし、隠し持っていたらという不信感が拭えなければ無理だろう。ただ、核兵器の場合は「使ったら終わり」という認識があるから、「抑止力」としての効果がある。それがあるから第二次大戦以降、大国間同士の戦争が起こっていないわけである。ただ、銃にはあまり抑止力は期待できない。

結局のところ、こういう事件が起こるたびに「銃規制」の声が上がり、そして萎んでいくということを繰り返していくのだろう。銃器メーカーによれば、「人を殺すのは人であって銃ではない」らしいが、わずか数分の間に大量殺傷できるのはやはり銃でしかない。禁止が難しいのならせめて重火器だけでも規制すればいいのにとは思う。自動小銃が普通にある社会というのも考えてみれば恐ろしい。

かつて観た映画『ヒート』では、街中でM14ライフルを乱射するシーンが出てきて、それは映画ながらものすごい迫力であった。それは映画だから楽しめるが、実際に出くわしたらたまったものではない。事件の現場となったマンダレイベイ・ホテルは、かつて我が家でも遊びに行って宿泊したことのあるホテル「ルクソール」の反対側にある。よその国の出来事だと言って安心してはいられない。つくづく、規制の方向に向かってほしいものだと思わずにいられない。

いずれ子供たちもアメリカに仕事や遊びで行くかもしれないし、日本人だから大丈夫という保証はまるでない。そういう意味で他人事ではなく、我が事として安全な社会を築いてほしいと思うのである・・・


         


【本日の読書】
 超AI時代の生存戦略 - 落合陽一 再起動 リブート―――波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語 - 斉藤 徹




2017年10月1日日曜日

それでいいのか

安倍晋三総理大臣が衆議院を解散し、いよいよ選挙という雰囲気になってきた。ここにきての解散と、それに伴う民主党の解党騒動には驚くばかりである。なんでいきなり解散なのだろうと思ったが、衆議院の任期は4年で残り13ヶ月ほど。どちらにせよ来年の年末には選挙なわけで、残りの期間を見据えた上で「タイミング」のいい時を狙って解散というのは理解できるところである。いろいろと批判はあっても、それを判断するのは我々国民なわけであるし、問題はないと考えている。

解散を批判するのはそれぞれの意見である。ただ、野党の政治家が批判するのは如何なものかと思う。解散カードを握っているのは与党であり、そのカードを切る時というのは「自らにとって都合のいい時」であり、裏を返せばそれは「野党にとっては都合の悪い時」であるから批判したくもなるのだろう。しかし、野党にとって勢力を挽回するのは選挙の時以外にはないのであり、立場としては常に「次の選挙」に備えていないとまずいわけである。その準備ができていないのを棚に上げて批判するのは違うだろうと思う。その点、日本維新の会代表の松井一郎大阪府知事は、そう述べて解散を批判していないので、このスタンスが野党のあるべき姿だろう。

それにしても民進党の解党には驚くばかりだ。現在の衆議院では民進党の議席は87で、数でいけば自民党の287に次ぐ第2党である(その次は公明党の35)。これを伸ばすのが本来目指すべきところだが、この3年間でのあり方を見ていると解党もやむなしと我が眼には映る。やってきたのは「自民党批判」だけ。中には自分たちが政権を担っていた時にやっていたことまで批判していて、その「節操もない批判」はとても二大政党の一翼を担う器ではなく、個人的にはとても残念で仕方なかったのである。

私は現在は自民党支持だが、それは「絶対支持」ではなく、「他に選択肢がない」結果である。基本的に二大政党体制が実現して欲しいと願っているのは昔から変わらない。政治の世界でも「健全な競争」は必要だろうと思うからである。ところが、民進党はとてもではないがその期待には程遠い有様であった。挙句にこの解党騒動である。民進党の衆議院議員は小池さんの希望の党に合流するらしいが、これもどうかと思わざるを得ない。その姿は「今人気の小池都知事にあやかって当選しよう」としている「風見鶏」にしか見えないからである。

政治家は本来、国政に出て「国をこうしたい」という大志がないとダメだと(そうあって欲しいと)思う。志を同じくする者と徒党を組むのはいいが、まずあるべきなのは自らの政治信条であるべきだろう。ところが「風見鶏」議員にはこれが感じられない。「選挙に落ちればタダの人」と言われる政治家だから、「当選してナンボ」、「政治信条など当選してから考えればいい」とでも考えているんじゃないかと思わざるを得ない。わからなくもないが、如何なものかと思う。

例えば私の地元を地盤としている木内孝胤議員は、民主党ブームに乗って当選したあと、民主党批判の逆風が吹くと離党、やがて国民の生活が第一、日本未来の党、生活の党と渡り歩き、維新の党の人気が出るとそれに便乗し、いつの間にか再び民進党に戻り、今回希望の党の合流組のリストを見てみたら、やっぱりしっかり名前が載っていた。見事という他ない。議員になる前はメリルリンチにいたらしいが、なるほど外資系らしい発想だと思う。多分、小池さんの威光が衰えたらすぐ次の勝ち馬を見つけるのだろう。そのうち自民党に鞍替えしているかもしれない。

個人的には二大政党体制が望ましいと考えているが、「与党批判」で政権交代を図るのではなく、政策で勝負して欲しいと思う。それにはやっぱり「政治信条をしっかり持った個々の政治家の集合体」である必要があるだろう。「政治信条を捨てて当選する」か、「守って落選する」かの瀬戸際に立たされた時、「当選」を選ぶ「風見鶏」を選びたいとは思わない。落ちたらただの人ではないかと言われそうだが、そういう人は落ちても復活があるだろうし、長い目で見ればそういう政治家の方が多くの支持を得られるのではないかと思う。そういう政治家をこそ、心から応援したいと思うのである。

これからしばらくは選挙一色になるだろう。国際情勢も経済も難しいところだと思うが、自分としては選挙民の1人として、しっかり考えて投票権を行使するしかない。そうすることで、我が国の行く末に貢献したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義 東芝解体 電機メーカーが消える日 (講談社現代新書) - 大西康之 見えない糸 ―物乞いの少年とキャリアウーマンの小さな奇跡の物語 - ローラ・シュロフ, Laura Schroff, アレックス・トレスニオウスキ, Alex Tresniowski, 関 美和