2016年9月18日日曜日

仕事とリーダーシップ

普段、仕事をしていて、時折イラッとすることがある。それは誰もやろうとしない時である。会社の仕事はいわば「小さなプロジェクトの積み重ね」である。商品(サービス)Aがあり、商品(サービス)BがありCDがある。それぞれいつから誰が何をするのかという段取りがあると思うが、時として誰も何も言い出さず、いつからやるのかわからないという状況がしばし現出するのである。もちろん、誰もやらなければ自分でやればいいだけで、事実そうしているが、自分だけしか言い出さない現状に、時々イライラ感を感じるのである。誰も何も感じないのだろうか、と。

例えば、あるチームに係長と主任とヒラ社員がいて、リーダーはもちろん係長だが、主任ともなれば、もうチームの原動力とならなければいけない。あるサービスAを始めるにあたり、係長がすべて決めても良いが、私が主任であれば、ある程度の段取りを自分で考え、「これでやろうと思うがいかがか」と係長にお伺いを立てるだろう。もちろん、係長は係長で頭の中で既に考えをまとめており、それゆえに主任からのお伺いに際しては即答で指示を出せる。それがいいチームというものだろうと思う。

リーダーシップとは、「誰に権限があるか」という問題ではなく、「自分でチームを動かそうという意識」に他ならない。ヒラ社員であっても、主任に対し、「いつから始めますか?」と聞くことだってできる。指示されるのをただ待っているだけではなく、指示を促すというのも、それでチームが動いていくなら、立派なリーダーシップと言えるであろう。権限だけ持っていても、何も決めず、指示も出さない係長にリーダーシップがあるとは言えない。

もしも、そういうリーダーシップのない係長の下についてしまうと、いつしか不満が溜まってくる。自分から動こうとしないスタンスに、ポジションにふさわしい人物(例えば自分とか)に変わるべきだと思ったりするのである。ただ、そこで赤提灯に行って不平不満を述べているだけだと、「目くそ鼻くそ」の世界になってしまう。そこは例えば映画で「できの悪い上司に使えたデキる部下」を演じるつもりで、デキる部下になりきればいいのである。

今の仕事では、実はそんなストレスを感じ始めている。自分より上席の人なのだが、これが見事に自分から動かない。これまでのキャリアを伺ったかぎりでは、長年「指示されることに慣れて」しまっており、立場が変わってもそういう意識を持てずにいるようである。あまりにも無関心(に見えてしまう)ので、一度黙っていたらいつまでプロジェクトのスタートを放置するのか試してみたくなるが、業績に直結する以上、中小企業にそんな「実験」をするゆとりがないのが残念である。

ただ、モノは考えようで、そういう人の下であれば、自分が音頭をとって自由にチームを動かせるわけで、一々指示されるよりも心地良い。人は誰でも自分が主体的に動ける環境に快感を感じるものである。高校生の頃は、「サラリーマンにはなりたくない」と思っていたが、それは「サラリーマン=指示されてその通りに働く人」というイメージがあったからで、実際にサラリーマンになって自主的に動く面白さを知ってからは、そういうネガティブなイメージはなくなっている。

「働く心掛け」も大事であるが、少し慣れてきたのなら、一歩進んでリーダーシップというのも意識したいところである。こうした意識を持って仕事をし、仕事をコントロールできるようになれば仕事も楽しくなる。思うに「仕事=苦痛」だと考えている人は、こういう意識がないのではないだろうか。だから、いつまでも「指示されるヒラ社員」から脱出できず、ショッカーで言えば戦闘員にしかなれないのではないかと思ってしまう。

会社からすれば、戦闘員も必要なわけで、それはそれで重視されるかもしれないが、問題は年をとった後だ。そうなると戦闘力は若い者に劣るわけで、会社としては新しい戦力に早く置き換えたいとなり、確実に「お荷物」と化す。そうなりたくなければ、そういう意識を持たなければならないだろう。

人は変えられるものではなく、それよりも状況をいかに工夫して生かすかでしかない。動かない人を動かすのもまた技量というもの。上も下もいかにうまく動いてもらってチーム戦力としていくか。それを心掛けたいと前向きに思うのである・・

【今週の読書】

 
 

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