2016年9月14日水曜日

論語雑感 (学而第一の1)

子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。
*********************************************************************************************************************

これまであちこちで中国古典の効用を説く話を聞いてきており、自身それを否定するつもりはなく、事実、過去に『論語』を読んだこともある。さらに今も『老子』に関する電子書籍を読んでいる。そして、ここにきて読んだ本(『靴下バカ一代 奇天烈経営者の人生訓』)にも、中国古典の良さが溢れており、刺激を受けて自分も読んでみることにした。まず手始めに一度読んだ『論語』を本棚から取り出した次第。そしてせっかくなので、ただ読むだけではなく、読んで感じた雑感を記したいと思う次第である。

はじめに出てくるのは、一般にも有名な言葉。ただ、「学びて時にこれを習う」についてはよく分からない。「学んだことを復習」することの喜びということだが、どうも弟子たちが習ったことを復習(復唱?)する声を聞き、孔子が目を細めているイメージなのであろうか。現代とはちょっと異なる当時の事情なのかもしれない。

実は今、数学の本(『13歳からの数学トレーニング』)を読んでいる。実生活では数学の勉強などする機会もない。難しいのはよくわからないから、簡単なところから手を出してみたのであるが、これがなかなか面白い。他にも歴史などは、今は本を読んでいるだけだが、いずれ時間ができたら独自に勉強してみたいとも考えている。孔子の意図したこととは違うかもしれないが、自分にとってはこれが「学びて時にこれを習う」だと思う。

孔子が活躍したのは約2,500年前であり、世界は現代よりもはるかに広かったから、「遠方より来る友」というのはありがたかったのであろう。だが、はるかに世界が狭くなった現代においても、時に友というのは遠い存在でもある。先日、高校の同期会があったが、大半の同級生とは前回以来4年ぶりに会うし、大学時代仲の良かったチームメイトでも、ちょっと会わないと34年はすぐに経ってしまうし、10年以上会っていない者もいる。

そう考えてみると、友達との距離というものは、本当に身近に住んでいる者数名を除いては、みんな「遠方」の友なのかもしれないと思ってみたりもする。そんな遠方の友から、わざわざ電話やメールが来て、「飲みに行かないか」なんて誘いがあれば、それは断るものではないだろう。自分のことを思い出して声をかけてくれたということをもっと喜んでいいかもしれない。そしてちょっと疎遠になっている友を思い出し、声をかけるのもいいだろう。人生を楽しく生きるためにも、遠方の友との交わりを深めたいと改めて思う。

人は誰でも「承認欲求」というものがある。自分を、あるいは自分のやっていることを認められたいという気持ちは誰でもあると思う。だからこそ、それをぐっと堪えて、「人知らずしてうらまず」の人は君子だと言っているのだろう。これは、当時も現代もそんなに変わっていない。「人知れず」何かをやるというのは、なかなか精神力のいることである。そして、それでも誰にも認められないという事態は誰にとっても耐えられるものではないと思う。誰もが認めてくれなくても、黙ってやっているとしても、それを認めている人がいる。それは「自分」であろう。「自分」すらも認めないことをできる人はいないと思う。

また、逆を返せば、人知れず努力している人を認められるのも度量だと思う。家庭にあっては、奥さんの日々の行いとか、職場では目立たない人の実は丁寧な仕事ぶりだとか。そういうことに気付く感性というものを持ちたいと思う。と言っても、髪型が変わったとか、いつもと違うアクセサリーをしているとか、昔から気付くのが苦手だった自分としては、かなりハードルが高い。やっぱり、「人知らずしてうらまず」、「知らぬ人を知る」人は、ともに「君子」=「人物」なのであろう。そんな「人物」を目指したいものである。








【本日の読書】 
 
   

0 件のコメント:

コメントを投稿