2011年1月10日月曜日

立場が変われば見方も変わる

ふと昔受けたテストの問題を思い出した。
確か中学生の頃だったと思うのだが、アチーブメント・テストというものがあって、その中の英語の試験問題の一つだ。英文を読んで題意を問う問題だった。

ある貧しい少年が金持ちの家のディナーに招待される。
少年は普段通りの貧しい身なりで訪ねて行くが、その身なりゆえに追い返されてしまう。
そこで今度はジャケットを借りて着て行くと、今度は中に入れてもらえる。
そうしていざ食事となった時、少年はジャケットをスープに突っ込んで言うのだ。
「さあお食べ、ここに招かれて食事を出されたのはお前だから、お前が食べるといい」

一度目と二度目の訪問での違いはジャケットを着ているかいないかだけ。
したがって、食事に招かれたのは少年ではなく、ジャケットだという少年なりの解釈だったわけである。問題文は、英文の題意を選択肢から選ぶスタイルで、下記のような選択肢が付されていた。
① 人を身なりで判断してはいけない
② 非常識な振舞いをする少年
③ ④その他忘れてしまった選択肢・・・

当然問題文としての答えは①だという事はわかったのであるが、そこで随分と迷ってしまった。
②も正解に思えたからだ。
①が出題者の求める正解だとわかっていても、なおかつ②も正解だと主張したかったから、敢えて②と答えた。学校の試験問題であったら、あとで答え合わせの時間に先生になぜ②と考えたのか主張・抗議していたであろう。だが、業者テストだからそれもできず残念だった。

その時考えたのはこうだ。
少年は確かに貧しいから最初は無理せず普段着で行った。
ところがドレスコードに引っ掛かって入れてもらえなかった。
普通食事に招かれたのなら、きちんとした格好で行くのが常識だ。
招待してくれた家の事を考えれば、正装で行くのはマナーだ。
いくら持っていないからといって、冠婚葬祭にTシャツにジーンズで行くだろうか?
その家の主の判断を責める理由はない。

しかも少年は2回目には、人に借りてきちんとしたジャケットを着て行っている。
そうした手段が取れるのであるから、始めからそうすべきだったのだ。
なのにそうせず、2回目に中に招かれた時、スープにジャケットを突っ込むという暴挙に出ている。
それも人様に借りたジャケットを、だ。これを非常識と言わずして何と言うのだろう。
「人を身なりで判断してはいけない」なんて教訓の例にするには、かなり不適切な問題だ。
おそらく問題作成者は一つの見方に凝り固まっていて、別の視点からの見方なんて思いもつかなかったのだろう。

先月「ヴェニスの商人」という映画を観た時も同じように感じた。
「ヴェニスの商人」は、誰もが知っているシェークスピアの名作だ。
しかし、実はユダヤ人差別に満ち溢れた話なのである。
ストーリーは、借金のカタに胸の肉1ポンドを担保にしたユダヤの商人シャイロックを、裁判官になりすましたポーシャが知恵で懲らしめるといるもので、誰でも痛快な気分を味わった記憶があると思う。しかし、シャイロックの立場からこの物語を見ると、違う風景が広がってくる。

映画の冒頭で忌み嫌われ差別されるユダヤ人の姿は酷いものだ。
そしてシャイロックをやりこめた後、続けざまに無理を畳みかける「正義の」主人公。
最後にはシャイロックに対してキリスト教への改宗をも命じてしまう。
基本的人権・信仰の自由という概念は、シェークスピアには欠けていたようである。

立場を変えて考えてみるという事はとても重要な事だと、最近つくづく思う。
自分にとっては絶対正しいと思う事であっても、他人から見ればそうではないかもしれない。
自分の考えを相手に認めてもらいたいと思うのであれば、まずはそんな相手の考え方を理解するところから始めないといけない。そんな風に実感している。

私は特に物怖じしない方だし、誰に対してでも自分の意見を言う事ができる。
だけど人によってはそうではないし、場合によっては遠慮して反論できない人だっているだろう。
相手が何も言わないから自分の意見が通ったと思うのは、だから危険だとこの頃になって感じている。

子供に「人間にはどうして耳が二つで口が一つなのだと思う?」と語った事がある。
自分が話す以上に人の話を聞きなさいと教えたのだ。
だが、そういう自分が実践できていたかと思うとちょっと怪しい。
理屈でねじ伏せてしまった事が、たびたびあったかもしれない。
特に自分の親に対しては、そうだった気がする。

今年は視線の違いを意識して、人の話をよく聞こうと思っている。
今さらながら、相手の目から見た世界を理解するようにしたい。
独りよがりの問題制作者にならないように、意識していきたいと思うのである・・・

     

0 件のコメント:

コメントを投稿