2010年11月24日水曜日

学校公開

先週末に長女の通う小学校で「学校公開」があった。
私の子供の頃は「授業参観」であった。
それは、特定の授業を1時間だけ親が見に来るというものだった。
あまり記憶には残っていないが、母親が来てくれていたのを覚えている。

「学校公開」とはその名の通り、学校の中を好きに見て下さいというスタイルである。
授業を見るもよし、校内をうろつくのも自由というわけだ。時間は午前中一杯。
午前中だけで子供たちは帰ってくる。
「せっかくだから全部見てきたら」という半ば脅し的な妻の声に背中を押されて、一時間目から参観。

一時間目は社会。
テーマは東京都の地図。
先生が東京都の大きな地図を黒板に貼る。
東に海があり、都心部にはビルが乱立し、西に行くに従って緑が増え、何と雲取山という山まである。東京は狭いながらも、いろいろな表情を持っている事を改めて学ぶ。

二時間目は算数。
「教室は隣だよ」と長女に言われて隣の教室に移動する。生徒は2/3ほどに減っている。
「はて?」と思っていたら、少人数制のクラスという事だった。
2つのクラスを3つに分けての授業である。隣のクラスを覗くと同じ事をやっていた。
レベルに合わせて、というのではなく、単に人数を少なくして先生が手厚くフォローしようというものらしい。

三時間目は国語。接続語の勉強。
「だから」とか「しかし」とか、文章と文章の間に相応しい接続語を埋めていく勉強だ。
さすがにわからない子はいないようだったが、こんなことまで勉強していたんだな、と改めて思う。
今では教養としてすっかり身についてしまっている事の中には、こうして一つ一つ教わった事も多いのだろうと思う。何せ小学校だけで6年間もあるのだ。

我々の頃とチャイムは同じだが、挨拶が違う。
「起立、礼、着席!」というお馴染のあれではなく、「これから○○の授業を始めます、よろしくお願いいたします」というものだ。
まあ何にせよ、こうした冒頭の挨拶で始めるスタイルは締りがあって良い。
よく映画で観るが、アメリカの学校ではチャイムが鳴った途端、生徒たちは先生にお構いなしに教科書を片付けて教室を出ていく。
そういうスタイルからすると、この伝統は良いものだとつくづく思う。

親に良いところを見せようと思うのか、どの子も積極的に手を挙げる。
手を挙げない時は自信がない時。
「そうかこういう問題は苦手なのか」とわかりやすくて良い。
教室の壁一面に普段の学習の成果が張り出されている。
日頃伺い知れない我が子の学校での様子がにじみ出ている。
今のところ、友達ともちゃんと付き合えているようだし、いじめみたいなものもなさそうである。

窓の外に目を向ければ、どこかのクラスが体育で球技をやっていた。
咄嗟に名前が出て来ない。
「ポートボール!」と名前が浮かんだ。
そう言えばそんな球技もやったなぁと懐かしく思い出す。

私が通った小学校は、今でも実家の近くにあるが、校舎は建て替えられてしまっていて、あの頃の面影はもうない。いつも野球ばかりやっていた気がするが、プールや音楽の授業や体育の走り高跳びでクラス一になったことや運動会で活躍したことや、思い起こせばいろいろと懐かしく思い出せる。
いつか長女も今を懐かしく思い出すのかもしれない。

4時間目の途中で次の予定があって、抜け出してきた。
さすがに立ちっぱなしはしんどい。
親父が授業参観に来た記憶はないが、やっぱり我が子の学校での姿を見るのは良い事だ。
長女のためにも、そして何よりも自分の為にも。
考えてみると、長女の学校公開に行くのもあと2回。
また来年もきっちり行こうと思うのである・・・


【本日の読書】
「ケチャップの謎」マルコム・グラッドウェル
「一夢庵風流記」 隆慶一郎
 
   

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