2010年11月18日木曜日

裁判員制度と死刑

裁判員制度もだいぶ定着してきたからだろうか、ここにきてついに死刑事件を扱うようになった。
先日の「耳かき店員殺害事件」に続き、「横浜二人殺害事件」の判決が出た。
「耳かき店員殺害事件」では無期懲役であったが、「横浜事件」は死刑だった。
そのあとも続々と続く気配である。

もともと裁判員制度の導入の背景には、国民感情と乖離した判決の問題があったと思う。
もっと国民の常識・感覚を裁判に持ち込もうという意図があったと記憶している。
それは果たして、死刑事件で効果があったのだろうか。

最初の「耳かき店員殺害事件」では被害者は二人。
死刑が求刑されて当然と思われたが、判決は無期懲役。
極刑を求める遺族の声をよそに、無期懲役という判決はそれまでの裁判官による判決と変わらない感じのものだった。やはりいざ自分が人一人の命を奪う権利を与えられると、おいそれとは行使できないのだろう。

かつて「デッドマン・ウォーキング」というアメリカ映画を観た。死刑囚とシスターの物語だ。死刑執行の時間が迫る中、再審の申請をしたりと活動をするもむなしく、刑は執行される。全編を通してシスターの視点で、死刑囚と死刑制度を見つめ、実際に刑を執行されるシーンでは、その残酷さがよくわかり、観終わる頃にはすっかり死刑廃止論者になりかけた。

「耳かき店員殺害事件」の裁判員たちも、たぶん被告の表情や改悛の様子などを目の前で見て、死刑という決断を下せなかったのだろう。無責任な立場で、新聞のニュースで事件の概要だけを捉えて、「こんなの死刑だろう」と気楽に言える立場とは大きく異なると思う。結局、いざとなると裁判官だろうが、一般市民だろうが、人の命を奪うという決断は下しにくいという事なのではないだろうか。

ただ、これらはみな犯罪者に視点を合わせているという事を忘れてはならない。
その陰には被害者とその遺族がいる。
ここに視点を合わせれば、別の風景が見えてくる。

およそ人一人が生まれれば、両親は目を細めて喜び、子供の成長を糧として働く。
入園・入学・運動会・学芸会・卒業・受験・・・様々なイベントがあり、家族はともに喜び笑い、幸せを分かち合いながら暮らしいている。それを一瞬にして奪うわけである。
それも大概は身勝手な理由で、だ。残された遺族の無念はどうなるのだ。

「横浜事件」ではさすがに死刑が宣告された。
裁判員の人たちも大きな決断をした。
電動のこぎりで生きたまま首を切断するなんて、尋常ではない。
いくら反省しようが許されるものではない。
検察官が必死に死刑を訴えるわけである。
それでも宣告後、裁判官は被告に控訴を勧めたという。
「プロの裁判官として何たる言葉」と某新聞が批判していた。

しかしながら思うのである。
それでこそまともな人間だと。
普通の人は、人の命を奪う決断などできるものではない。
特に我が国においては、教育も行き届いていて普通の感覚では人を殺す事などできるわけがない。
それが例え裁判における正当な権利としても、である。

義務として死刑は宣告したけれど、それでも心穏やかならず控訴を勧めるなんて、実に人間味溢れていると思う。気楽な立場の新聞記者が、批判できる筋合いのものではない。
職務は立派に果たしたのであるから、それでいいのだと思う。

先進国の間ではもはや死刑廃止は一般的で、まだ残しているのはアメリカ・日本・台湾・シンガポールなどだけで、総計58カ国。
我が国は少数派だ。死刑廃止論者たちも活発に活動している。

彼らは一様に死刑の残虐性を訴える。しかし、そこには被害者の視点が決定的に欠けている。江戸の昔なら「仇打ち制度」があった。しかし、今ではそれは許される行為ではない。個人間の私闘を防ぐのが法治国家だ。個人の恨みは国家が果たしてくれるので、いくら悔しくても遺族は復讐する事は許されないのである。だからこその死刑制度だ。

決断を下す人たちの心労はかなりのものだと思うのだが、やっぱり正義のためにしっかりと判断してもらいたいし、死刑制度は堂々と維持すべきであると思うのである・・・


【本日の読書】
「一流たちの修業時代」野地秩嘉
「一夢庵風流記」 隆慶一郎
 
     

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