2025年12月14日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、譬如爲山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。
【読み下し】
いわく、たとえばやまつくるがごとし。いまいっさざるも、むはむなり。たとえばたいらかにするがごとし。いっくつがえすといえども、すすむはくなり。
【訳】
先師がいわれた。「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ」
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 一簣(いっき)とは、土を運ぶ道具の一杯分ということのようである。少しでも足りなければ目的のものにならないというのは、我々もよく経験している。たとえば合格点が80点のテストであれば、1点足りなくても10点足りなくても不合格は不合格である。また、一問一問の正解を積み重ねなければ合格には届かない。一問正解して1点取れれば、残りは79点である。そこで確実に一歩前進したわけである。当たり前と言えば当たり前であるが、改めて言われれば実に深い言葉であるなと思う。

 1日1日過ごしていると、いつしか季節は移り変わり、365日経てば一年が経過する。先日、昔の同僚と飲みに行ったが、考えてみると前回は昨年の11月の終わりであり、もう1年経ったのかとその早さに驚く。しかし、それは過ぎてから振り返るからであり、つい昨日のことのように思えても、その間考えてみれば色々な出来事があり、間違いなく1年経っているのである。それも1日、1日の一簣のなせる技と言えるのだろうと思う。

 合格ラインに1点足りなくて涙を飲んだことは過去にはあるが、それはそれは悔しいものである。1点差にどれほどの差があるのかと言えば、ほとんどないだろう。もしかしたらたまたま知っていた問題が出たという程度のものかもしれない。答えはわかっていたのに、うっかり違う答えを書いてしまったということもある。それでも合格は合格、不合格は不合格、実力的にはほとんど同じであっても、合否の壁は厚い。一簣の差はとてつもなく大きいのである。

 ゴルフでは、ホールの手前まで行けば「OK」となるが、テストとなればそうは行かない。そこは非情な世界である。そう考えてみると、孔子が強調する「一簣」の重さというのがわかる。特に私は、1週間で10時間勉強しなければならないとすると、前夜に10時間徹夜するのではなく、1週間かけて計画的に10時間こなす「コツコツ型」であり、「一簣」の積み重ねの重要性というのは理解している。あのイチローも「小さなことを積み重ねることがとんでもないところへ行くただ一つの道」と語っている。

 ラグビーの試合で疲れ切って、あるいは痛めた足を引きずって家に帰る時、またはこの時期寒さを堪えて通勤の駅に向かう時、行く道が遥か遠くに感じる時がある。その時いつも考えるのは、「一歩、一歩」である。あとどのくらいと考えれば嫌になる。そんな時はいつも目の前の一歩に集中する。そうすると、気がつくと家や会社の前に来ている。個人的には何となく人生の縮図のような気がしていたが、改めて今回の言葉に触れてみると相通じるものを感じる。

 1点でも足りなければ目的を達することはできないという厳しさ、一方、一歩一歩積み上げて行けば、その一足は確実に後に蓄積として残る。どちらも深い言葉であると思う。振り返れば1日、1日の繰り返しで61年の人生を過ごしてきている。「人生」においてはテストと違って1点に泣くということはない。ただ、「一簣」の積み重ねが後に残るだけである。少しでも多く良いものを積み重ねたいと思う。

 差し詰め、今の生活においては老親との生活であろうか。少しずつ、今までできたものができなくなっていく我が親。それでも今は毎日一緒に過ごせている。「残り時間」は確実に減っている。1日、1日を大切に積み重ねたい。それは合否を競うようなものではなく、自分自身で最後まで十分にやれたかという納得感を得るためのものである。テストとは異なるが、1点に泣くこともあるかもしれない。そんなつもりで「残り時間」を大切に過ごしていきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

【本日の読書】
 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義






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