2023年3月26日日曜日

いつまでも自分でいたいと思う

 週末は必ず1日実家へ行くことにしている。そこでトイレ掃除や床掃除など年寄りには体の負担の大きな掃除を引き受け、買い物に行き、昼食と夕食を作る。正直言って面倒だが、両親と過ごす時間もあとどのくらいあるかわからないが残り少ないのも確かである。「孝行したい時に親はなし」という言葉もある事だし、せめて今できることをしておこうと思うのである。おかげで料理もできるようになったし、悪くはない。父は耳が遠くなり、母は腰が痛いといつもつぶやく。だが、こればっかりは私にはどうすることもできない。

 加えて最近、父は急激に認知能力が衰えてきたようである。先日は外出先で乗り換えがわからなくなり駅員さんに聞いたそうである。初めてでもない都内の駅であり、本人も驚いていた。さらにその後、平日の昼間に突然電話がかかってきて、メールの送り方がわからないと訴える。その場で説明するも、「今見ている画面」の説明ができない。オロオロして「これなんだろう」というばかりである。それまでにない態度であり、背筋に寒いものが走ったのである。

 人間誰でも老化から逃れることはできない。かつての人生50年時代には認知症など問題にはならなかったのかもしれないが、長生きになった結果、生物としての限界に近づいてしまっているのだろうか。もっとも、LIFESPAN-老いなき世界-』(読書日記№1243)によれば、老化は治療することができるらしく、150歳まで生きることも可能なのだという。夢のある話ではあるが、ただ生きるだけでは意味がなく、当然「より良く」生きなければ苦痛の人生が長引くだけである。認知症になってしまったら、長生きしてもあまり意味はない。

 私の祖父は89歳まで元気に生きた。最後は癌になって、もう治らないと医者に言われ、農薬をあおった。なかなか見事であり、自分もかくありたいと思うが、それには何より意識がしっかりとしていないといけない。体は多少不自由になったとしても、最後の瞬間まで「自分」でありたいと思う。少なくとも人間、思考は歳を取らない。シニアのラグビーに参加していても、頭の中の自分は学生時代と何ら変わりない(だから危ない)。たぶん、80歳になっても90歳になっても、変わるのは外見だけだろう。

 どうしたら、最後まで自分でいられるだろうか。それがわかれば世の中の人はみんな苦労はしない。自分は大丈夫だと思っていても、それは根拠のない自信。先日の事、出張先のホテルで夜、映画を観た。選んだのはジェイソン・ステイサムの主演映画。ちょっとアクション系の映画を観たい気分だったのである。観た映画はすべてブログにまとめているが、帰宅してさっそくブログにアップしようとして愕然とした。何とすでにアップしてあるのである。日付は7年前である。

 これまで何度か映画を観ている途中で、「これ観たな」と気づくパターンはしばしばあった。それが最初の5分程度だと何とも思わないが、半分近く観た後だとちょっとショックを受ける。しかし、今回は観終わって清々しい気分になり、ブログを書く寸前までまったくわからなかっただけに愕然としてしまった。もしもブログを書いていなければ気がつかなかったところである。これがすなわち記憶力の衰えなのかもしれないが、親父の本棚に同じ本が2冊あるのをこれからあまり笑えなくなるかもしれない。

 考えてみれば、人間の記憶力にはもとより限界はある。人は経験したことをすべて記憶しているわけではない。そしてその記憶も人によってまちまち。こちらがよく覚えていることを相手はまったく覚えていないという事もよくある。映画もみんな忘れてしまっているわけではなく、今でもほとんど覚えているのではないかと思うくらい鮮明に覚えている映画もある。もっとも、それだけ強烈に心に残る映画だということだけかもしれない。ブログを見返してみると、やはり観たことを忘れてしまっている映画も数多い。それがもったいなくてブログを書いているのでもある。

 自分はいつまで自分でいられるのだろうか。願わくば最後の瞬間まで自分でいたいと思う。たとえ足腰が弱って体が多少不自由になったとしても、心だけはいつまでも自分自身でい続けたいと心から思うのである・・・

Dariusz SankowskiによるPixabayからの画像 

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