2022年11月17日木曜日

論語雑感 雍也第六(その28)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子見南子。子路不說。夫子矢之曰、「予所否者、天厭之。天厭之。」

【読み下し】

南子なんしまみゆ。子路しろよろこ

夫子ふうしこれちかうていはく、

われいなめるところものは、あめこれいとはん、あめこれいとはん。

【訳】

先師が南子に謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。

「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない。」

『論語』全文・現代語訳

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 前職では、赤字会社を立て直し、業績改善・向上に力を尽くしていたが、最後は社長が知らぬ間に会社を売却してしまい、役職員はわずかな退職金だけで全員解雇の憂き目にあった。中には20年近く勤めた社員もいたのに、よくもまぁそういう非情なことができるものだと逆に感心したほどである。自分の評判より、長年自分のために働いてきた社員より、自分が引退して左うちわの生活を送るために会社を売ったお金を独り占めすることが大事だったわけである。それは自分にはない感覚である。


 それはともかく、人によって善悪の感情は様々である。大抵の場合、人は悪い事はしないようにしようとして日々行動していると思う。それを支えるのは、内的な要因と外的な要因とがあると思う。内的な要因とは自分の良心、そして外的な要因とは警察を含めて「他人の目」全般である。道を歩いていて、1万円札が落ちているのを見つけた時どうするか。人がたくさんいれば交番に届けるかもしれないが、誰もいない深夜の路上だったらどうだろう。


 誰も見ていないところで、悪い事、ずるい事をしないでいられるか、はその人の心次第となる。誰も見ていないし、責められることもない。そんな中で、いかにしたら正しい振る舞いができるであろうか。昔の人は、「お天道さまが見ている」と子供の頃から教え諭した。そういう「外の目」を作り出したことで、正しい行動を導いたと言える。ただ、それとて結局「外の目」があるから正しい行動が取れたわけで、己の心が導いたものとは言い難い。


 私などは、深夜の路上であれば、誰も見ていないのを確認して1万円札をポケットに入れるだろう(残念ながらまで実際に拾った事はないが・・・)。深夜であればお天道さまも見ていないというわけではないが、「そのくらいいいだろう」的な考えはすると思う。それでもポケットに入れないという人はいると思うが、よっぽど自制心の強い人だろう。そういう自制心の強い人でも、なぜそういう自制心を保てるのかと言えば、やはりそれは自分を客観視して、「自分を見ている自分の目」を意識できるからではないかと思う。


 また、人は自らの行動を正当化するものである。「盗人にも三分の理」と言われるのもその意味で、たとえ人からは「おかしい」と言われても、当の本人は一生懸命それを正当化する。だからお天道さまにも顔向けできる。先の社長も最初は退職金を払おうとしなかったが、その理由は「退職金規定がないから」。どうやら自己都合退職と会社都合退職との違いを知らなかったらしい。そしてそれを責められて、自己弁護も限界を覚えて渋々雀の涙の退職金を認めたのである。雀の涙でも出したことになる。今度はそれで胸を張っている。


 そこまで自分の行動を無理やり正当化しなくても、人は大抵自分の行動は正しいと信じている。「人がなんと言おうが、初志貫徹する」というのは立派なことである。そしてその行動が、信念に基づく行動なのか、無理やりの自己正当化なのか、判断の主体は結局本人である。決して外部の多数決ではない。取締役全員が反対した起死回生の施策を社長が独断で実行し、大成功させたなんてクロネコヤマトの例もある。そこに何を言われてもやり抜くという信念があれば、それが本人の行動を支えることになる。


 そういう信念の行動の結果が良ければ大いに胸を張るだろうし、悪ければその結果もその身が引き受けることになる。それが「天がゆるしてはおかれない」ということなのだろう。先の社長がこの先どういう人生を歩むかはわからないが、一つ言えることは、「金のために平気で社員を切り捨てることができる男」というレッテルを貼られたことであろう。もっとも、それを気にしなければどうという事もない。


 お天道さまが見ていなくても、自分が見ていることは確か。深夜の路上に落ちていた1万円札をポケットに入れても、仲間を裏切る事はしたくはない。会社の売却に際しては、仲介に入った日本M&Aセンターの担当者から、「他の社員をうまく取りなしてくれたらお礼はする」と買収を持ちかけられたが、即座に拒否した。迷いがなかったのは、他人の目というより自分の目があったから。金を積まれても、「そういう自分にはなりたくない」という思いが自分にはある(もっとも、億の金を積まれたら話は別である。後でみんなで分ければいいだけの事だから喜んで買収に応じただろう)


 お天道さまが見ていなくても、自分が見ている。自分で自分が嫌になるような行動はとりたくないと思い。今のところそれが一番自分には効果的な自制心だと思うのである・・・



JoeによるPixabayからの画像 

【本日の読書】 

  



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