2021年6月24日木曜日

宇宙は自分を中心に回っている

 最近、様子見を兼ねて週に一度は実家に顔を出している。両親も2人暮らしであるが、それぞれにストレスはあるのか、よく私に相手の愚痴をこぼす。それぞれの言い分はもっともである。父は長らく自営で印刷業をしていたが、1人で機械を回し、黙々と1日中仕事をしていた姿を覚えている。そんな父は夫婦げんかになるとよく「誰のおかげでやってこれたと思っているんだ」と母に言う。「俺が働いている時、お前は山だ、テニスだと遊んでいた」と。多趣味な母はハイキングやソフトテニスを楽しんでいたのである。

 母にすれば面白くない。確かに稼ぎはすべて父に負っていた。しかし、母は母なりに家計のやりくりをし、得意先の集金に行き、経理を担い、税理士ともやり取りをし、と印刷以外の仕事をこなしてきていた。テニスや山はその合間に行っていたものである。当然、そういう反論はするが、「俺が食わせてやった」という昭和の父には通じない。最近、実家で料理をするようになった私は、家事がいかに大変かということを実感しているから、母の言い分もよくわかる。父も1人であったらとても大変だったであろう。結局、「共同作業」なのである。

 一方、仕事を引退した父は、母が体調を崩したこともあり、少しずつ家事をこなしている。買い物はほとんど父が担い、簡単な朝食の用意と風呂掃除に掃除機をかける簡単な掃除、食後の食器洗いなどである。それ以外の時間は趣味の写真(撮影とパソコンでの画像処理)とテレビで映画を楽しんでいる。しかし、母にしてみれば父のやっている程度の家事は家事のうちには入らない。曰く、「何もしないで1日中パソコンに向かっているかテレビを見ている」と批判する。それに対し、父は「やっているだろう!」と反論する。

 中立的な立場で聞いていると面白い。2人とも意見の相違点は共通していて、「やっているか否か」と「やっている程度」との違いである。「やっているか否か」であれば、2人とも「やっている」。だから「やっていない」と言われると反論したくなる。だが、責める方の考え方は「やっている程度」。「十分ではない」、「やっているうちに入らない」という批判である。かみ合わないのも無理はない。そしてお互いにそれに気づいていない。

 人は誰でも自分の考えが中心。自分の見方が世界の見方。自分が相手を批判するまさにその見方で相手から批判されていることに気がつかない。母は私が子供の頃、私に対し「相手の気持ちを考えなさい」と叱ったことがあり、私は「相手の気持ちなんかわかるわけがない」と反論したことを覚えている。今でもその考えは変わっていないが、「想像はする」ようにしている。頭に来てもすぐ怒りを沸騰させるのではなく、なぜ相手はそんなことを言うのだろうかと想像してみるのである。それによって、相手を多少なりとも理解できるし、それで許せる場合もあるし、許せない場合も冷静に反撃ができるのである。

 ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』の主人公スクルージは徹底した守銭奴である。その様子に普通の人なら顔をしかめる。ところがスクルージにはスクルージなりの世界の見方があり、それによれば自分の行動は当然なのである。それが3人のゴーストによって自分以外の視点から世界を見せられ、それまでの生き方を反省するのである。両親もたぶん、自分以外の視点から自分たちの姿を見せられたら、ひょっとしたら気づくのかもしれない。

 最近、大きな裏切りに遭い、ショックを受けるとともに腹も立てているが、一方で相手には相手の世界があり、その世界では相手の行動は正しいのだと思っている。それはそもそもの考え方にもよる。例えばその人は亡くなった父親の古い免許証が出てきた時、あっさりそれをゴミ箱に放った。私ならそんなことは絶対しない。だが、それだけ私とは感覚が違う訳である。自分の感覚で相手の行為を批判しても始まらない。たとえ世間一般的におかしいと思われても、相手はそれが正しいと考えているわけである。であれば、それを批判するよりも、自分はどうするのかを冷静に考えるしかない。

 相手はおそらく、世間的常識というところの感覚とか、モラルというものからはズレているのだろう。無知の部分もあるかもしれない。そうして相手を見下すことにより、私の気も多少晴れる。怒りのまま感情を爆発させても今回は利益がない。冷静になってせめて一矢報いる手段を講じるしかないと思うし、そうするつもりである。不思議なことに、相手に対する負の感情もそれほど大きくならない。感情のコペルニクス的転回と言えるのかもしれない。

 今では地球が太陽の周りをまわっていることは誰でも知っている。しかし、それはただ見るだけではわからないものであり、だからこそ長い年月の間天動説が支持されてきたのである。しかし、人は誰でも依然として世界の中心は自分のままである。それは決して間違いではないが、問題はその世界の中心が人の数だけあるということ。自分を中心から外す必要はないが、そういう風に考えるだけで賢く振舞えそうな気がする。そういう風に世界を見たいと思うのである・・・



【本日の読書】
 


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