2019年10月21日月曜日

論語雑感 里仁第四(その7)


〔 原文 〕
子曰。人之過也。各於其黨。觀過斯知仁矣。
〔 読み下し 〕
()わく、(ひと)(あやま)ちや、各〻(おのおの)()(とう)(おい)てす。(あやま)ちを()(ここ)(じん)()る。
【訳】
先師がいわれた。――
「人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ」
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過失にも種類がある。そして人によってその過失にも特徴がある、という孔子の言葉。言われてみれば確かにそうかもしれないと思う。孔子はさすがに観察眼が鋭い。人にはそれぞれ癖があり、だからうっかりするところもだいたい決まってくるというのは、我が身を以って実感している。実は銀行員時代、細かい数字のミスをちょくちょくやっていたのである。自分でも気をつけているつもりであったのだが、どうしても防げなくて情けない思いをしていたものである(今はもう感じないが、それは単に扱いが減ったからで治ったわけではないはず…)。

 たぶん、人によって「うっかり余計な一言を言ってしまう」とか、「またやっちゃった」というのがあるのだと思う。孔子もそんなことを日頃の観察眼から得ていたのかもしれない。もっとも、「その人の仁、不仁がわかる」という部分は相変わらずよくわからないが、「犯すべくして犯した過ち」ということは何となくわかる。そして、ここで言っているのは表面的な「ついやっちゃったうっかりミス」という程度ではなく、もっと人の根本の部分に関わるものだろうと思う。

 そもそもであるが、孔子は「人柄次第」というものの、よく言われる「その人らしさ」とはどういうものかと、ふと思う。「自分らしさ」と考えてみると、それは何であろうか。「自分はこうだ」と思うことなのかもしれないが、自分で思う「主観的な」自分らしさが「自分らしさ」なのか、それとも人が見た「客観的な」自分という人間らしさが「自分らしさ」なのだろうか。

 先日、大学時代からの友人に会った時のこと、大学時代の私のエピソードをからかわれた。もう30年以上も前の事であり、私もすっかり忘れていたことである。「そんなこともあったなぁ」と思いつつも、同時に「今だったら絶対やらないだろう」とも思う。それは誰にでもある「若気の至り」でもあり、年齢的にも性格が穏やかになったということでもあり、自分の中では変化していることなのであるが、友人の中では私はいつまでたっても「そういう人間」であるようである。つまり、友人の考える「私らしさ」と自分で思う「私らしさ」とは異なるのである。この場合、どちらの「私らしさ」が正しいのであろうか。

 およそ主観と客観では客観の方が正しいと思うが、こと「自分らしさ」で言えば、「自分の事を一番よく知っている人=自分」の方が正しいようにも思う。それにモノの見方はコインの裏表と同様、表裏一体のところがある。「臆病」も実は心の中では「慎重」なのかもしれないし、友人に対しては「ケチ」でも、身内に対しては「気前が良い」かもしれない。つまり、明らかに「良い悪い」を判断できるものであればともかく、「見方による」場合は「過失」の判断すら難しいかもしれない。

 大げさに「過失」と捉えなくても、その行為に人柄が現れると考えればそれはまさにその通り。それを「過失」に注目したところが孔子の面白い着眼点なのかもしれない。「仁=人を思いやる気持ち」と考えるのであれば、それが欠けていることから起こす過ちというものも想像に難くない。されどついつい、人は己の事のみを顧みて短絡的な方法を選んで失敗する。そんなことを孔子は戒めたのであろう。

 2,500年前も現代も同じことが言えるということは、そうそう人の本質は変わらないということ。いつの時代にも同じように考え、失敗する人がいるということである。友人の中ではいつまでも変わらないのかもしれないが、今では若気の至りと省みることができるようになった(と自分では思えるようになった)わけである。そろそろ友人のイメージを更新できるように、円熟味を出していきたいものだと思うのである・・・




【本日の読書】


 
 

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