2019年5月24日金曜日

蜘蛛の糸


うばい合えば足らぬ わけ合えば余る
相田みつを
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Apple Booksの紹介がきて、何気なく見てみたら、その昔読んだ芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が目に止まった。短い話なのですぐに読めてしまうが、改めて読んでみると実に示唆に富んだ話だと思う。蓮の池を散歩していたお釈迦さまが、ふと見降ろしてみたところ地獄で苦しむ亡者たちの中からある男に目をつける。そして救ってあげようと蜘蛛の糸を地獄に垂らすのである。

お釈迦様が救おうと思った理由は、その男が生前一匹の蜘蛛を助けたというのであるが、それで強盗や殺人やさらに放火の罪で地獄行きとなった者が救われるのなら安いものに思えてしまうが、まぁそこはお釈迦様の気まぐれである。ともかく、男はその蜘蛛の糸にすがって登り始めるわけである。ところが途中でふと見降ろすと大勢の亡者たちが次々と後を追って登ってくる。そこで男は思わず「この蜘蛛の糸は自分のものだから下りろ!」と叫んでしまう。その途端、糸はプツンと切れてしまう。

もちろん、糸が切れたのは重みではない。せっかくお釈迦さまが救いの手を伸べてくれたのに、男は自分だけが助かる事しか考えず、糸が切れることを心配して叫んだのである。しかし、そういう自分勝手な考えこそ戒めるべきで、だから糸は切れてしまったのである。話はそこで終わっているが、再び血の池に落ちた男が絶望の中でどう思ったのかはちょっと気になるところである。そんな男のことだから、糸が切れたのはその重みに耐えられなかったからだと後から登ってきた者たちを恨みがましく思ったかもしれない。

もしもその時、男が気にせず登り続けたら、あるいは後続の者を助けようとしていたら、糸は切れなかったであろう。後に続く者がみんな救われたかどうかはわからないが、あるいは男が「ゴール」した瞬間に糸が切れていたかもしれない。罪状からすれば強盗殺人放火の罪にあたる男であるから、結末としては自業自得であり当然である。功罪を比較すればそもそも救いの対象となるべきではないと思うが、これを読めば誰でも「バカだなぁ」と思うだろう。だが、その「教訓」を果たして我々は生かしているだろうか。

「自分さえよければ」という考えは、すぐに脳裏に浮かんでくる。満員電車でもう乗り込めないように入口で頑張っているおじさんの姿はよく目する。スーパーで「おひとり様2点まで」などとあると、並び直して何個も買う奥さま(あるいは命じられた旦那さん)。震災時に首都圏のコンビニやスーパーで買占めがあったことはまだ記憶に新しい。もっとも震災時に被災地では譲り合いが見られ、海外から賞賛を浴びていたから、もしかしたら本当の非常時には助け合いの精神が働くのかもしれない。ただ、日常生活においては目につくのは糸を切られそうな例ばかりである。

みんな子供の頃に読んだ童話では、正直爺さんになろうと思ったはずである。しかし、現実には金の斧を自分のものだと言い、大きなつづらを持って帰ろうとする。ビジネスで言えば「三方良し」の精神に欠けるのである。そういう自分はどうかと言えば、もしかしたら無意識にやっているところはあるかもしれない。スーパーで2回並べと言われることはたまにあるが、抗しきれないのは事実である。

まぁ、日常のささやかな例程度であれば目くじらを立てるほどでもあるまいと思うが、50も半ばを迎えるとなると、そろそろ「正直爺さん」になる準備をし始めてもいいのかなと思うのである・・・



【本日の読書】
 
 
   
   

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