2019年5月12日日曜日

論語雑感 八佾第三(その24)


〔 原文 〕
儀封人請見。曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。從者見之。出曰。二三子。何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸。
〔 読み下し 〕
()封人(ほうじん)(まみ)えんことを()う。()わく、(くん)()(ここ)(いた)るや、(われ)(いま)(かつ)(まみ)ゆることを()ずんばあらざるなり。従者(じゅうしゃ)(これ)(まみ)えしむ。()でて()わく、()(さん)()(なん)(うしな)うことを(うれ)えんや。(てん)()(みち)()きや(ひさ)し。(てん)(まさ)(ふう)()(もっ)木鐸(ぼくたく)()さんとす。
【訳】
儀の関守が先師に面会を求めていった。
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません」
お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。
「諸君は、先生が野に下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸にしようとしているのです」(下村湖人『現代訳論語』)
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 論語と言えば、何となく「孔子の言葉」を伝えているものというイメージがあるが、ここで伝えられているのは「エピソード」である。詳しくはわからないが、当時の中国にも関所のようなところがあったのであろう。そこを通過する時は、大概身分を明かして通行の許可を求めたのだと思う。そして許可を求めてきた相手が孔子だとわかり、関所の責任者が孔子に面会を求めたというのであろう。当然、許可をもらう立場としては断るわけにもいかず、面会に応じた。何となくそんな場面を想像してみたのである。

 そして面会の結果、この責任者は孔子の人となりを認め、弟子たちを励ましたということである。今は浪人の身であろうといずれ世に出るであろうと。ちなみに『木鐸』とは「法令などを人民に伝えるために鳴らした木の舌のある鈴。軍事には金鐸を使い、文事には木鐸を使った。転じて、世間の人々を導く指導者」という意味であるらしい。どのくらいの時間話をしたのかはわからないが、初対面でも孔子が大人物であるとわかったということであろう。そしてそれを弟子たちとしては誇らしげに記録に留めたということなのだと推察される。

 この時の関所の役人がどうして一度の面談で孔子を人物と判断したかはわからないが、話の内容によって相手の力量がわかるということはしばしばある。それは単なる雑談だけだとわかりにくいかもしれないが、専門分野のことに関して話が及んだ場合感じられることが多い。それも単に専門分野に詳しいといったことではなく、そこに「哲学」がある場合などである。どんな考え、どんな思いを持ってそこに打ち込んでいるのか。それによって自然とリスペクトの念が湧いてくることがある。そんな時、相手を「人物」だと思う。関所の役人は孔子とあるべき政治の姿について話をしたのかもしれない。
 
 私の場合、一番これを感じるのが経営に関してである。長年の銀行員生活で培ったと言えば聞こえはいいかもしれないが、話をすることによって相手の方の力量がわかることはしばしばである。それは単に大会社の社長であれば「大人物」で中小企業であればそうではないというものではない。大企業でも特に危機対応などで馬脚を現す人は多いが、中小企業でも「人物」だと感じさせられる方もいる。その差はうまく言い表せないが、やはり「哲学」だと思う。

 「哲学」は「言葉」と置き換えてもいいかもしれない。聖書でも「初めに言葉ありき」(ヨハネの福音書11)と語られているが、語られる言葉はその人の思想であり哲学を表す。それが真理であればあるほど、その言葉を使う人に対するリスペクトにつながる。経営者でも日頃から哲学を持って経営している人と、そうでない人は言葉が違う。たんに目先の利益だけ追っているような経営者から、心から共感できるような哲学を宿した言葉を聞けることはない。

 プロ野球選手でも、元楽天の野村監督や元中日の落合監督は、著書も何冊も読んでいるが、言葉に哲学が宿っている。今年引退したイチローも数々の名言には哲学が感じられる。成功したから哲学があるのか、哲学があるから成功したのかはわからないが、ただ単に野球がうまいというだけでないことは、語られている言葉によってわかる。それは日々の努力によって培われたものでもあると思うが、日頃から「考えている」ことに他ならないだろうと思う。

 日々の仕事でも考えることは山ほどある。単に目先の細々とした「作業」レベルではなく、「そもそも」論である。「我々は何者なのか」「これから世の中に対してどんな価値を提供できるのか」「そのためには何をなすべきなのか」「我々らしくあるためにはどんなやり方をすべきなのか」「企業としては求めるべきは収益であるがそれだけがすべてなのか」等々である。営業マンであったとしても、そうした問題意識を持っている人はそうでない人と比べれば一味違う。いわんや経営者においては尚更である。
 
 そういう「言葉」を持った人と話をするのは誠に楽しいひと時である。逆にそうでない人とは気疲れしてしまう。そう思う以上、自分も相手からそう思われるわけであり、故に自分の「言葉」も磨きたいと思う。それはつまり「考える」ことに他ならず、それについてはおろそかにせずこだわりたいと思う。「また話が聞きたい」と思ってもらえるか。それを意識して、「言葉」を磨く努力をしていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】

 
 
 
   

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