2019年5月28日火曜日

考えるとは

考えることの重要性は今さら言うまでもないであろう。それを否定する人はたぶんほとんどいないと思う。されどでは実際のところはどうかと思うに、実は考える事を放棄してしまっていることが結構あると思う。その1つの例は、医者やいわゆる「士業」の人と相対した時である。士業とは、弁護士や公認会計士などの高度な専門知識を有した国家資格を持つ人のことである。

 例えば具合が悪くて医者にかかったとする。すると何やら深刻な事態だと告げられる。やれ手術が必要だとかの大事になった場合、医者の診断に耳を傾ける。この時、大抵の人は「言われるがまま」になってしまう。それも無理からぬことで、なにせ相手は専門家である。素人の知識では到底対抗できない。それゆえに「言われるがまま」になる。それでも素人が対抗しようと思ったら、たとえば「セカンドオピニオン」を取るという方法がある。「考える」ということをすれば、である。

 医者の場合は、たとえば自分の命がかかっているから、多少真剣になって「考える」のだろうが、弁護士などにお世話になる法律問題になると「お任せ」になる確率も高くなるのではないだろうか。「法律の事はわからないから」「慣れた弁護士が最適だと判断して言うのだろうから」という感じで、「言われるがまま」になるのである。これは、「思考停止」の最たるものだと思う。もっとも、そんな事を言えば、「考えた結論だ」とでも言い訳が返ってくるかもしれない。ただ、「弁護士の言うことだから」と「盲信」している段階で思考停止しているのは明らかである。

 確かに法律問題になると素人にはわかりにくい。では「言われるがまま」も無理ないかと言えばそんなことはない。話を聞いて「考える」ことは十分に可能である。この場合、「考える」ことは、「疑問に思う」ことと同意義だと思う。疑問に思ったら、「そういうものか」と簡単に納得せず、どういうことかと説明を求める。素人にもわかりやすく説明してもらえば良い。それで納得できれば良し、できなければできるまで聞く。これに尽きる。

 こうして納得できれば良しだし、時にこうした会話の中から相手の弁護士も気付きを得て自らの法廷戦術を変更するかもしれない。弁護士とて神様ではない。間違えることもあるし、思い違いもある。「専門外だから」「素人だから」というのは言い訳にしか過ぎない。「疑問を持てば」それを追求することでいくらでも対等に渡り合える。「考える事は疑問を持つこと」と言いかえることもできるかもしれない。

 4年半前に銀行から不動産業界へと転職してきたが、転職当時はわからないことだらけ。業界慣習や会社で当たり前のようにやっていることが多々あった。それらについて、「疑問に思う」ことを片っ端から尋ねていったが、聞かれた方も実はよくわかっていないということも多かった。そういうものを追求していくと、なぜそのようにするのかがわかったり(原因がわかれば理解も早い)、あるいは改めて考え直してそのやり方を変えたりしたこともあった。自分も周りもいろいろと変化できたと思う。黙って「そういうものか」と思って受け入れるだけであったなら、まだ素人に毛の生えた程度の事務屋だったかもしれない。

 「考えて仕事をしているのか」と問えば、誰でも「考えています」と言うだろう。だが、そこで言う「考えている」は考えているうちに入らない。「相手の言うことは常に正しい」と「考えている」ことは、ただ盲信しているだけで実は何も考えていない。だからそういう場合、「疑問を持って(それを相手にぶつけて)いるか」と問うのがいいかもしれない。そういう問い方をすれば、「専門家の言うことだから間違いない」という思考停止状態にあることがわかるし、それを防げると思う。

 「疑問を持ってやっているだろうか」
それを常に意識するといいと思うのである・・・




【本日の読書】
 the four GAFA 四騎士が創り変えた世界 - スコット・ギャロウェイ, 渡会 圭子 14歳からの哲学 考えるための教科書 - 池田 晶子





2019年5月24日金曜日

蜘蛛の糸

うばい合えば足らぬ わけ合えば余る
相田みつを
************************************************************************************

Apple Booksの紹介がきて、何気なく見てみたら、その昔読んだ芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が目に止まった。短い話なのですぐに読めてしまうが、改めて読んでみると実に示唆に富んだ話だと思う。蓮の池を散歩していたお釈迦さまが、ふと見降ろしてみたところ地獄で苦しむ亡者たちの中からある男に目をつける。そして救ってあげようと蜘蛛の糸を地獄に垂らすのである。

お釈迦様が救おうと思った理由は、その男が生前一匹の蜘蛛を助けたというのであるが、それで強盗や殺人やさらに放火の罪で地獄行きとなった者が救われるのなら安いものに思えてしまうが、まぁそこはお釈迦様の気まぐれである。ともかく、男はその蜘蛛の糸にすがって登り始めるわけである。ところが途中でふと見降ろすと大勢の亡者たちが次々と後を追って登ってくる。そこで男は思わず「この蜘蛛の糸は自分のものだから下りろ!」と叫んでしまう。その途端、糸はプツンと切れてしまう。

もちろん、糸が切れたのは重みではない。せっかくお釈迦さまが救いの手を伸べてくれたのに、男は自分だけが助かる事しか考えず、糸が切れることを心配して叫んだのである。しかし、そういう自分勝手な考えこそ戒めるべきで、だから糸は切れてしまったのである。話はそこで終わっているが、再び血の池に落ちた男が絶望の中でどう思ったのかはちょっと気になるところである。そんな男のことだから、糸が切れたのはその重みに耐えられなかったからだと後から登ってきた者たちを恨みがましく思ったかもしれない。

もしもその時、男が気にせず登り続けたら、あるいは後続の者を助けようとしていたら、糸は切れなかったであろう。後に続く者がみんな救われたかどうかはわからないが、あるいは男が「ゴール」した瞬間に糸が切れていたかもしれない。罪状からすれば強盗殺人放火の罪にあたる男であるから、結末としては自業自得であり当然である。功罪を比較すればそもそも救いの対象となるべきではないと思うが、これを読めば誰でも「バカだなぁ」と思うだろう。だが、その「教訓」を果たして我々は生かしているだろうか。

「自分さえよければ」という考えは、すぐに脳裏に浮かんでくる。満員電車でもう乗り込めないように入口で頑張っているおじさんの姿はよく目する。スーパーで「おひとり様2点まで」などとあると、並び直して何個も買う奥さま(あるいは命じられた旦那さん)。震災時に首都圏のコンビニやスーパーで買占めがあったことはまだ記憶に新しい。もっとも震災時に被災地では譲り合いが見られ、海外から賞賛を浴びていたから、もしかしたら本当の非常時には助け合いの精神が働くのかもしれない。ただ、日常生活においては目につくのは糸を切られそうな例ばかりである。

みんな子供の頃に読んだ童話では、正直爺さんになろうと思ったはずである。しかし、現実には金の斧を自分のものだと言い、大きなつづらを持って帰ろうとする。ビジネスで言えば「三方良し」の精神に欠けるのである。そういう自分はどうかと言えば、もしかしたら無意識にやっているところはあるかもしれない。スーパーで2回並べと言われることはたまにあるが、抗しきれないのは事実である。

まぁ、日常のささやかな例程度であれば目くじらを立てるほどでもあるまいと思うが、50も半ばを迎えるとなると、そろそろ「正直爺さん」になる準備をし始めてもいいのかなと思うのである・・・




【本日の読書】
 右脳思考 内田和成の思考 - 内田 和成 マチネの終わりに(文庫版) (コルク) - 平野啓一郎





2019年5月19日日曜日

学校へのスマホ持ち込み解禁に思う

 政府は2月、公立小中学校への携帯電話やスマートフォンの持ち込みを原則禁止した文部科学省の通知を見直す方針を示した。大阪府教育庁も今年度から、緊急時の連絡手段の確保に向け公立小中学校に通う児童・生徒について、スマホや携帯電話の校内への持ち込みを認めた。ただ、教育界では反発や異論も根強い。     
産経ニュース-2019/04/20
************************************************************************************

 スマホも随分普及してきた。我が家も娘には高校入学と同時に買い与えた。中学生の息子はまだ「キッズ携帯」である。息子もたぶん高校生になれば買い与えるようになるのだろうと思う。この方針は妻の考えであるが、私としては別の考えを持っており、少々不満はあるが妻に合わせているという実情である。一方、学校には当然持ち込み禁止であり、それは当然だと思っていたから、文科省の方針には驚くとともに「やるじゃないか」と思わずにはいられないところである。

 もっとも通知を受けて大阪府の教育委員会が示した目的は、「防災・防犯のためと明記し、使用は地震などの災害時や犯罪に巻き込まれる危険に直面した場合に限る」としているので、そこは感心しがたいと思うところである。どうせなら「ITリテラシー育成」とでもしてくれたなら大いに賞賛したと思う。その根底には「スマホ=悪」という感覚があるのだろう。「悪」と言っても酒やたばこのような「子どもには有害」という意味である。

 しかしながら私はアルコールやたばことは同一視しがたいものがあると思う。むしろ「ITリテラシー」の方に重点を置く考え方で、なので早いうちから積極的に触れさせたいと考えている。家庭でもともかく学校でもそうである。もちろん、いろいろと考えなければならない問題はある。それは「解決」すればいいだけである。それよりも早くからスマホを使いこなし、それを有意義に使えるようになれるようにすべきだと思う。

 学校での使用については、考えなければならない問題は当然あるだろう。たとえば授業中に見ていたり、LINE等友達同士ですぐに返信しないと非難されたりする「スマホ依存症」と言われる状況である。ただし、これこそ学校で教える良い問題だと思う。私などはむしろ学校でこういうことをきちんと教えることが大事だと思う。学校への持ち込みは「免許制」にしたらいいというのが私のアイディアである。

 たとえば学校で希望者に「講習」を受けさせその結果「免許」を与えるのである。「講習」では当然スマホにまつわる様々な問題を採り上げ、やってはいけないことをはっきりさせておく。いじめにつながりかねない問題は当然である。家に帰ったら夜10時以降は親に預けるルールまで設定すれば、家庭でも親が子どもの反抗を招くことなく預かれる理由になる。もちろん、教師が求めた場合はスマホを閲覧させる同意も含めるのである。免許の有効期間を1年とすれば、毎年ルールを再確認させられる。

 一律禁止は禁止する側としては楽である。だが、それはただ楽をしているだけで子どもに対する教育にはならない。子どもにスマホを持たせたくないのは「正しい使い方」ができないだろうからで、なら「正しい使い方」を教えるのが大人としてのあり方だろう。その昔、社会党の土井委員長が憲法改正について、「ダメなものはダメ」とのたまわっていたが、こういう「思考停止」の態度では健全な議論も生まれない。大人も「思考停止」にならないためには、問題に逃げずに向き合う必要があると思う。
 
 我が家の「高校生まではダメ」というローカル・ルールは「教育的方針」というより「経済的理由」のような気がする。問題は「妻の思考回路」にあるだけに、こればっかりはなかなか難しい。息子もあと2年我慢するしかない。ただし、息子には私の一存でタブレット端末を与えている。家庭内のWiFiに接続し、いつの間にか使いこなしている。電話の機能はなくてもまぁ私の目的は達しているので良しとしている。

 それにしても中学2年の息子の周りではほとんどみんなスマホを持っているという。息子は持っていない少数派の数人の1人だという。よくそれで「欲しい」と言い出さないなと逆に感心しているが、もはやそういう時代なのである。学校に持ち込ませないことで、学校の先生たちが安心しているとしたら、それはもや問題から目を背けているだけである。正しい使い方こそ学校で教えるべきで、その意味で「スマホ持ち込み解禁」すべきなのである。

 学校へのスマホ持ち込み禁止を当然だと思っている大人は、そういう固定観念と思考停止に危機感を持った方がいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。 - ヤニス・バルファキス, 関 美和 マチネの終わりに(文庫版) (コルク) - 平野啓一郎




2019年5月12日日曜日

論語雑感 八佾第三(その24)

〔 原文 〕
儀封人請見。曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。從者見之。出曰。二三子。何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸。
〔 読み下し 〕
()封人(ほうじん)(まみ)えんことを()う。()わく、(くん)()(ここ)(いた)るや、(われ)(いま)(かつ)(まみ)ゆることを()ずんばあらざるなり。従者(じゅうしゃ)(これ)(まみ)えしむ。()でて()わく、()(さん)()(なん)(うしな)うことを(うれ)えんや。(てん)()(みち)()きや(ひさ)し。(てん)(まさ)(ふう)()(もっ)木鐸(ぼくたく)()さんとす。
【訳】
儀の関守が先師に面会を求めていった。
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません」
お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。
「諸君は、先生が野に下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸にしようとしているのです」(下村湖人『現代訳論語』)
************************************************************************************

 論語と言えば、何となく「孔子の言葉」を伝えているものというイメージがあるが、ここで伝えられているのは「エピソード」である。詳しくはわからないが、当時の中国にも関所のようなところがあったのであろう。そこを通過する時は、大概身分を明かして通行の許可を求めたのだと思う。そして許可を求めてきた相手が孔子だとわかり、関所の責任者が孔子に面会を求めたというのであろう。当然、許可をもらう立場としては断るわけにもいかず、面会に応じた。何となくそんな場面を想像してみたのである。

 そして面会の結果、この責任者は孔子の人となりを認め、弟子たちを励ましたということである。今は浪人の身であろうといずれ世に出るであろうと。ちなみに『木鐸』とは「法令などを人民に伝えるために鳴らした木の舌のある鈴。軍事には金鐸を使い、文事には木鐸を使った。転じて、世間の人々を導く指導者」という意味であるらしい。どのくらいの時間話をしたのかはわからないが、初対面でも孔子が大人物であるとわかったということであろう。そしてそれを弟子たちとしては誇らしげに記録に留めたということなのだと推察される。

 この時の関所の役人がどうして一度の面談で孔子を人物と判断したかはわからないが、話の内容によって相手の力量がわかるということはしばしばある。それは単なる雑談だけだとわかりにくいかもしれないが、専門分野のことに関して話が及んだ場合感じられることが多い。それも単に専門分野に詳しいといったことではなく、そこに「哲学」がある場合などである。どんな考え、どんな思いを持ってそこに打ち込んでいるのか。それによって自然とリスペクトの念が湧いてくることがある。そんな時、相手を「人物」だと思う。関所の役人は孔子とあるべき政治の姿について話をしたのかもしれない。
 
 私の場合、一番これを感じるのが経営に関してである。長年の銀行員生活で培ったと言えば聞こえはいいかもしれないが、話をすることによって相手の方の力量がわかることはしばしばである。それは単に大会社の社長であれば「大人物」で中小企業であればそうではないというものではない。大企業でも特に危機対応などで馬脚を現す人は多いが、中小企業でも「人物」だと感じさせられる方もいる。その差はうまく言い表せないが、やはり「哲学」だと思う。

 「哲学」は「言葉」と置き換えてもいいかもしれない。聖書でも「初めに言葉ありき」(ヨハネの福音書11)と語られているが、語られる言葉はその人の思想であり哲学を表す。それが真理であればあるほど、その言葉を使う人に対するリスペクトにつながる。経営者でも日頃から哲学を持って経営している人と、そうでない人は言葉が違う。たんに目先の利益だけ追っているような経営者から、心から共感できるような哲学を宿した言葉を聞けることはない。

 プロ野球選手でも、元楽天の野村監督や元中日の落合監督は、著書も何冊も読んでいるが、言葉に哲学が宿っている。今年引退したイチローも数々の名言には哲学が感じられる。成功したから哲学があるのか、哲学があるから成功したのかはわからないが、ただ単に野球がうまいというだけでないことは、語られている言葉によってわかる。それは日々の努力によって培われたものでもあると思うが、日頃から「考えている」ことに他ならないだろうと思う。

 日々の仕事でも考えることは山ほどある。単に目先の細々とした「作業」レベルではなく、「そもそも」論である。「我々は何者なのか」「これから世の中に対してどんな価値を提供できるのか」「そのためには何をなすべきなのか」「我々らしくあるためにはどんなやり方をすべきなのか」「企業としては求めるべきは収益であるがそれだけがすべてなのか」等々である。営業マンであったとしても、そうした問題意識を持っている人はそうでない人と比べれば一味違う。いわんや経営者においては尚更である。

 そういう「言葉」を持った人と話をするのは誠に楽しいひと時である。逆にそうでない人とは気疲れしてしまう。そう思う以上、自分も相手からそう思われるわけであり、故に自分の「言葉」も磨きたいと思う。それはつまり「考える」ことに他ならず、それについてはおろそかにせずこだわりたいと思う。「また話が聞きたい」と思ってもらえるか。それを意識して、「言葉」を磨く努力をしていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 バカとつき合うな - 堀江貴文, 西野亮廣 14歳からの哲学 考えるための教科書 - 池田 晶子





2019年5月10日金曜日

運転免許に年齢制限は必要か

運転免許の更新案内が届いた。前回の更新から5年。早いものである。免許を取ったのは大学に入学してすぐだから、もう35年前である。最近、18歳の娘が免許を取得したが、免許証とは長い付き合いになるのだろう。果たしてあとどのくらい運転するのだろうかと考えてみるが、免許に関してはあまりいつまでということを考えたことはない。そう言えば、今年82歳になった父も先日免許証を更新したと言っていた。父は既に車を廃止してペーパードライバーになっているが、やっぱり免許だけは更新しておきたかったようである。

そんなことをふと考えたのも、最近高齢者ドライバーによる事故があり、免許に関する年齢制限が話題になっているからである。個人的にはこの議論については、「制限を設けるべき」だと考えている。ただ、そうすると地方に住む高齢者の足がなくなる等の反対意見もある。だが、地方に住む高齢者すべてが免許を保有しているわけではない。長野県の富士見に住む伯父夫婦も伯母は免許をもっていない。伯父がいる間はいいが、いなくなったあとはどうするのだろうと思うが、なんとかするのだろう。なければないなりに不便だがなんとかするものだと思う。

 高齢者の運転については、別の反対意見もある。曰く、高齢者の事故が増えているのは「分母が増えているから」であり、分母の増加率と比較すれば事故の件数は増えていないというものである。また、年齢層ごとの事故発生率で比較すれば、若者の方が事故率は高く、高齢者のほうが事故を起こす割合ははるかに低いし、死亡事故件数でも若者に比べれば高齢者の事故件数は低いという意見もある。

 まぁ、反対意見もそれなりに理屈はあるが、現実問題として発生している死亡事故を見れば成り立たない反論だと思う。死亡事故と不便とを比べれば、どちらを優先すべきかは議論するまでもない。事故率や件数では若者より少ないと言っても、問題はその中身である。人間の体はどうしたって老化で衰える。「アクセルとブレーキを踏み間違える」「標識を認識できず高速道路を逆走する」なんて事故を若者がどれほど起こしているのだろうか。

 最近、シニアラグビーの練習に行くと、よく大先輩から個別練習に付き合わされる。高いキックを蹴らせてキャッチングの練習をしたいというものである。私がボールを蹴り上げて先輩がキャッチするのだが、その姿はいかにも頼りない。もちろん、元から下手だったのではない。ご本人によると、高いボールが見えにくくなっているということである。さらにボールを見上げながら落下地点に移動するという際の体のバランスもとりにくくなっているようである。もともとの上手い下手ではなく、体の機能がそれだけ衰えているのである。

 一方、衰え知らずなのは「頭の中」。自分はいつまで経っても若々しい意識でいる。「まだまだ若い者には負けない」のである。だからたちが悪い。池袋の大事故も「アクセルが戻らなかった」と運転者は語っているそうだが、警察による検証の結果はどうやら「異状なし」だったようで(『池袋暴走 事故車のアクセルとブレーキに異常なし 踏み間違えか』毎日新聞2019年5月7日 20時36分)、本人はブレーキを踏んでいるつもりで一生懸命アクセルを踏んでいたのかもしれない。体の機能の衰えは誰にでも確実に起こる事であり、万が一の事故を考えれば制限するのが当然だと思う。

 もっとも、人の体の老化は一律ではない。施設で生ける屍のようになっている80歳もいれば、かくしゃくとしている90歳もいる。一律に論じるのも無理だというなら、75歳を過ぎたら毎年厳格チェック付きで更新するようにしてもいいだろう。面倒だからと言って返上するなら望ましいところである。また、地方に配慮するというなら「地域限定免許」もいいかもしれない。当然、自分の住んでいるエリア周辺限定である。先の私の伯父などは、もう昔から「地域限定」運転に徹していて、決して高速に乗って東京方面に向かおうなどとはしない。過疎地の足なら重大事故の可能性も低くなるし、十分有効だと思う。

 都心に住む我々のような者は、もう年齢制限があってもいいと思う。都心はそれなりに移動手段もあって利便性が高い。不自由は甘受すべきなのであり、たとえ一件であろうと池袋の事故のようなボケ老人の運転で死傷事故が起こる事は回避すべきだろう。ボケ老人が生き残って未来のある若者が死ぬ不条理はなくさないといけない。この点では、確率や件数を根拠にドヤ顔で反論されてもなぁと思わざるを得ない。実にみっともない反論である。

 自分自身もいずれ高齢者となる。たぶん、まだまだ若者には負けないと思うだろうし、自分の運転は大丈夫だとも思うに違いない。だが、その時が来たら潔く免許を返上したいと思うし、ジタバタしないようにブログにも残しておきたいと思う。目標は「80歳でドライバー引退」である。まぁ、できることならば、その時までに「自動運転車」が普及していることを大いに期待したいと思うのである・・・




【本日の読書】
 もっと言ってはいけない(新潮新書) - 橘玲 逆説の日本史 24 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎 (小学館文庫 い 1-40) - 井沢 元彦





2019年5月2日木曜日

浮気をしたことがありますか

たまたまネットを見ていたら、【浮気しやすい男性なのか確かめたい!「浮気したことある?」と聞かれたとき、浮気経験のある男性の返答9パターン】という記事を目にした。非常に面白いと思う。浮気とか不倫とかはよく芸能人が槍玉に上がっているが、我々一般人にも無縁なわけはない。「文化」とは言わないが、これは尽きることのない人類の永遠の問題であるような気がする。

その記事によれば、男性の返答9パターンは下記の通り。
1.   「そんな経験ないよー」と軽く返し、後は聞かれたこと以外答えない
2.   「ないよ。常に彼女は3、4人いるけどねー」と冗談で返す
3.   「ない!」と力強く言い切る
4.   「どこからが浮気なのかな?」と話題をすり替える
5.   「昔はそんなこともあったけど、今はないかな」と変化を強調する
6.   「俺ってそんな風に見える?」と逆に問いかける
7.   「浮気って言うほどのものはないかなぁ」と言葉を曖昧に濁す
8.   浮気経験を認めつつも、「でも最後の一線は越えられなかった」と付け加えてフォローする
9.   「過去に一度だけ。でもすごく後悔したので二度としたくない」とマジメに語る
なるほど、である。

 ここでなぜ「男性」なのかも面白い(まぁ記事が女性向けだからというのは置いておく)。それは「男」の方が圧倒的に浮気しやすいからだろう。その事実は「種の保存」からも当然の理屈である。つまり、種として雄は自分の遺伝子をより広く広めようとする。となると、同時に複数の雌に分身をバラまくことが効率的であるが、雌の方は一度に相手は1人だけである。どうしてもその相手に妊娠期間中自分を守らせようとする。それが互いに理に適うわけである。つまり、浮気は男のDNAに刻まれた本能と言える。

この浮気に対する捉え方も、したがって男と女では捉え方が異なる。つまり、男にとっては「(男の)浮気=善」であり、女にとっては「(男の)浮気=悪」である。男同士の間では、若い女性、あるいは美女と浮気しているとなればその男の株は上がり羨望の眼差しを集めるが、女からすれば「最低男」となってしまう。男同士では「奥さんあるいは彼女一筋」は特に自慢にはならないが、女性からはその誠実さを持って賞賛を浴びることになる。

であるから、男から「浮気をしたことがあるか?」と問われた場合、あれば当然「ある!」と力強く答えるし、なくとも「まぁそれなりに」と見栄を張って答えることになる。逆に女性から聞かれれば、賢い男なら当然あっても「ない」と答える傾向になるわけである。その心中に渦巻くのは、肉食系の食欲と嘘をついてはいけないという良心と男ならではの見栄であろうか。そう考えると、先の9つの回答も面白いと思う。

肉食系の食欲が強い男は、当然「ない」と断言する。上記「3」のパターンだ。本当になければ恥じらいもあるし見栄坊も出てくるからから、「1」になるだろう。「1」はまた「ある」が良心と戦っているパターンでもある。見栄坊が強くなれば「2」だろう。食欲もそうだがつまらない見栄を捨てられないのである。食欲と良心とが葛藤しているのが、「4」以下だろう。それぞれの心中をのぞいてみればなんとなく心の声が聞こえてきそうである。

4:「どこからが浮気なのかな?」→ (女性はなかなかセックスとは言い難いし、その言葉を意識させるだけでも次の展開に期待できるぞ!)
5:「昔はそんなこともあったけど、今はないかな」→(「昨日何してたの? そんな《昔》のことは忘れたよ」って映画『カサブランカ』でボギーも言ってたしな・・・)
6:「俺ってそんな風に見える?」→ (話題の展開によってはいい雰囲気に持っていけるかもしれないな!)
7:「浮気って言うほどのものはないかなぁ」→(俺っていつもその時は「本気」だからね)
8:(『最後の一線』って奥さんと別れて一緒になるってことだよね?)
9:(でも君となら後悔しなくて済むかも)
ただし、「8」と「9」は下心がないパターンもあると思う。

 1つ確実に言えることは、男には肉食欲もあるが、良心もあれば見栄坊もいる。そんな中で女性が本当のことを聞こうと思ってもそれは無理だろうということである。なぜ知りたいと思ったのか、その理由にもその時の状況にもよるだろうが、概ね「聞くだけ無駄」と考えた方がいいと思う。実際はどうなのかと思わずにはいられないかもしれないが、それはもう相手を見て想像するしかないと思うのである・・・




【本日の読書】
 逆説の日本史 24 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎 (小学館文庫 い 1-40) - 井沢 元彦