2019年1月20日日曜日

論語雑感 八佾第三(その17)

〔 原文 〕
子貢欲去告朔之餼羊。子曰。賜也。爾愛其羊。我愛其禮。
〔 読み下し 〕
(こう)告朔(こくさく)()(よう)()らんと(ほっ)す。()()わく、()や、(なんじ)()(ひつじ)(おし)む、(われ)()(れい)(おし)む。
【訳】
子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。――
「賜よ、おまえは羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい」
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こういうケースは現代でもよくあるのではないかと思わされる。なんとなく伝統的に続いてきたことだが、今ではなんのためにやっているのかという意識が薄れ、コストもかかるからやめてしまおうというようなことである。「告朔の礼」がどんなものかはわからないが、わざわざ羊を犠牲にまでしてやる意味があるのかという弟子の問いに対し、孔子が戒めているのである。目先のコスト()に囚われて大事なことを失ってはいけないと。

ここでは弟子の子貢が愚かだったのではなく、そこにあるのは師と弟子との「視点の違い」だろう。弟子の子貢の目には、よくわからない儀式に羊を犠牲にするのはいかがなものかと映ったのであり、師にしてみれば、羊の犠牲には比較できない意義が「告朔の礼」にはあると考えていたのである。今の我々の環境において考えてみると、そこには気づかされるものがある。

まず子貢の立場から考えた場合、自分だったらまずそもそも「告朔の礼」にどんな意味があるのかを考えてみるだろう。ずっと続いてきた儀式であれば、そこにはなんらかの意味があるものだと考えるのが普通である。わからなければ分かる人に聞く。そうして問いかけてみれば、実はもう意味などなくなっていて、惰性でやっているということがあるかもしれない。そうすれば廃止を訴えればいいわけであるが、逆にきちんとした意義があることがわかるかもしれない。

私も今の会社に転職してきた際、いろいろと疑問に思うことがいくつもあった。疑問に思うものは、どんどん質問していったが、中にはベテランの人でもうまく答えられなかったり、実はもう意味をなさないものもあった。そうしてやり方を改めたものもあったし、続けるにしても改めてみんなでその意義を確認しあったりしたものもあった。そうしていろいろなものを見直してきたが、1つ例を挙げれば顧問契約である。

月々定額の顧問契約を支払っている専門家がいたのであるが、私は早々にこれについて疑問を持ったのである。「どういう効果(成果)が期待できるのか」と。会社も赤字だったし、月々の顧問料もバカにならない。いろいろとヒアリングした結果、すでに当初契約した意義は無くなっており、さらに今後も成果は期待できないと判断できたので、それは打ち切った。代わりに建築士と弁護士と顧問契約を締結している。こちらは技術的なアドバイスが期待できるし、いざ案件となった時に優先的に対応してもらえる。月によっては顧問料を払っても何も相談事項がない時があるが、だからと言って無駄とは言えないのである。

次に孔子の立場からであるが、もしも私が孔子の立場だったら、ただ黙って指示だけ出して何かをやらせるのではなく、事あるごとにその意義を伝えるだろう。人間、無駄なことをやらされていると思う時は生産性も低くなる。我が社でも期初には前期の決算の成績や今期の目標を全員に説明している。ルーティーンワークでないものを指示する場合には、なぜそれを会社としてやるのか(そしてあなたに担当してもらうのか)を説明している。孔子も日頃から「告朔の礼」の意義を子貢に説明していたら、上記のやり取りは生じなかったであろう。

結局のところ、どこに視点を合わせるかによって考え方は変わって来る。コストに目を向ければ、何も相談することがない月にも顧問料を払うのは無駄だとなる。しかし、視野を広くして、大事なところで優先して動いてもらうために親密な関係を維持するという考え方に立てば、スポットで見れば無駄な費用も無駄ではない。孔子も「礼」の維持という観点から見れば、羊の犠牲も無駄ではないと考えたのであろう。

 それぞれ違う視点があるということを理解するとともに、会社のようにある目的を共通する組織においては、「視点を共有する」ということも大事であると思う。そんなことを改めて認識させてくれた論語の言葉である・・・




【今週の読書】
    
  
   
   


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