2018年1月7日日曜日

論語雑感 為政第二(その16)


子曰。攻乎異端。斯害也已。
()()わく、()(たん)(おさ)むるは()(がい)あるのみ。

【訳】
先師がいわれた。異端の学問をしても害だけしかない
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基本的に論語は、2,500年の時を経ても今なお残っている真実として重みのある言葉と理解しているが、今回のこの言葉はなかなか解釈が難しい。というのも個人的には、学問でも宗教でも学ぶ人信じる人はそれぞれであり、それを否定するべきものではないと思っているからである。ここで言われる「異端」が何を指しているのか、それによって理解は変わるものだと思う。

専門家の解釈もどうもはっきりとしたものがあるわけではないらしい。孔子の時代には、「異端」には何か現代とは別の意味があったとか、あるいは隠された意味があるとか、当時の独特の言い回しがあったとか、そこには2,500年の壁があるのかもしれない。信じるものは自由とは言え、テロを正当化する過激派思想などはやっぱり排除されるべきだろうが、そういう極端なものでない限り、「害だけしかない」と言い切るのは疑問である。

学問の世界で、学説が対立するというのはよくあることである。それを異端と決めつけるのは、よほど確たる根拠がなければ難しいし、逆に確たる根拠があればそれを信じる人はいなくなるだろう。今では地動説を信じる人がいないのと同じである。当時、ガリレオの天動説が異端とされて排除されたが、それが正しかったかどうかは明らかであり、そういう一例を取ってみても「害だけしかない」と断ずることはできない。

これに対し、歴史の「異端」はどうなんだという気がする。「慰安婦問題」や「南京事件」を巡る事実認定は、日本(一部メディア等は除く)と韓国・中国では異なる。ただまぁこれは「学説」というより「捏造」なので、「異端の学問」とは言えないかもしれない。ただ、盲目的に信じている人にとってみれば、それはやはり歴史の真実であるだろうから、立派な歴史ということなのかもしれない。個人的にこれは害しかないと思うし、結果的に私の嫌韓感の根拠になっていることからすると、やっぱり「害がある」と言えるかもしれない。

私の愛読書である『逆説の日本史』シリーズは、歴史学界の見方に異を唱えているので、歴史学界の人たちから見れば「異端」なのかもしれない。ただ、だからと言って排除されてしまうと、歴史学の進歩は閉ざされてしまうだろうし、読書の楽しみも減ってしまう。「異端」だと思っても、受け入れる土壌は必要だろうと思う。

もしもこうした排除が正当化されると、「異端」に対する「正当」のみしか認められなくなるし、学問に対するこうしたスタンスは、広く行けば「意見」にも及び、それはすなわち「異論」に対する排除になるやもしれない。様々な意見があって、それを交わすことによって理解が深まったりするものであるし、それは学問においても同じだと思う。

そうした「異端」を排除しないことも大切だと思うが、さらに言えば理解する努力も必要な気がする。自分の考えと合わないからという理由で学ぶことをやめてしまうのではなく、一旦学んで理解した上で、「自分の考えに合わなければ採用しない」というスタンスが必要だと思う。それでこそ、それまで気づかなかったことに気づいたり学んだりすることができるのだと思う。

孔子の説いた真意は素人の私にはわかるべくもないし、従って表面だけの理解で批判するのもおかしいと思う。論語の言葉の中には理解の難しいものもあるとし、所によっては自分はこう考えるというスタンスで理解したいと思うのである・・・





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