2017年11月29日水曜日

マンション管理士

先週の日曜日は、マンション管理士の資格試験であった。仕事での必要性から受験を決意し、1年間準備してきて試験に臨んだが、自己採点ではどうやら「あと一歩」だったようである。残念というよりも、もう勉強したくなかったので、また勉強を続けないといけないのかという気持ちの方が強い。まぁ、1回で諦めるわけにもいかず、また来年再チャレンジするしかない。

このマンション管理士という資格だが、実はなんで設けたのかわからないほど「意味のない資格」である。資格があるからと言って、できることは「マンション管理士を名乗って相談に乗ることができる」というものである。マンション管理士でなくても「名乗りさえしなければ」相談には乗れるし、笑ってしまうくらい意味がわからない資格である。おそらく、これで食べていくことはできないだろう。

なんでこんな資格なんか作ったのだろうかと訝しく思うが、まぁ役に立つ立たないではなく、資格を作っただけで仕事をしたという「お役人の理屈」の産物ではないかと思う。では、なんでそんな資格を手に入れようかというところであるが、それはこの資格の唯一の強みである「名刺の肩書き」だろう。これが名刺に入っているのといないのとで、今の仕事で相手に与える印象が大きく変わると思うのである。

そういえば、最近「賃貸不動産経営管理士」という資格があることを知った。不動産賃貸業に従事している身として興味あるところであるが、その資格とは、「賃貸不動産管理に必要な専門的な知識・技術・技能・倫理観を以って、賃貸管理業務全般にわたる、管理の適正化・健全化に寄与することを目的とする資格制度」(Wikipedia)であるらしい。これも何だかよくわからない。別に資格なんかなくても何の支障も差し障りもない。唯一、「倫理観」というところは大事だと思うが、資格の勉強で果たして身につくものかという気はする。

資格というのは、一定の範囲で必要だとは思う。その資格がないと仕事ができないようなものであれば、モラルや安全性といった意味で一定の保証になる。不動産業に携わっていると、基本的な資格である宅建を持っていないと、重要事項の説明ができないなど支障が生ずるので、最低限の勉強をさせるという意味でも資格としては意味があるかもしれない。しかし、マンション管理士にはそれがない。不動産経営管理士とやらも然りである。

そんな名刺の肩書き程度にしか役に立たない資格ではあるが、合格率は毎年8%程度という狭き門。名刺の肩書き程度にしか意味のない資格に対し、そんなに門を狭くして何の意味があるのかと思う。ただ、そうした文句の諸々は何よりも「受かってからしろ」と思う気持ちがあって、何より受かるまではまずは勉強するしかない。試験問題も、そんなに細かく知る必要があるのかというぐらい重箱の隅問題があるのだが、何より実際に受かっている人がいるわけだし、今回の試験もやっぱり8%くらい受かるわけだから、まぁ勉強するしかない。

年々衰える記憶力は、自分でも愕然とする。これでも難関国立大学を卒業したという自負はあるのだが、もうそんな過去の栄光は額縁の中だけにしか通用しない。衰えたなら衰えたなりに創意工夫して戦わなければならない。敵は己自身の怠け心。来年の絶対合格を期して、1日も手を休めることなく、これから勉強をし続けようと思うのである・・・







【今週の読書】
  
    

2017年11月23日木曜日

老害か

わがセブン秘録 - 鈴木 敏文, 勝見 明先日、セブン&アイ・ホールディングス元会長で現名誉顧問の鈴木敏文氏の著書『わがセブン秘録』を読んだ。鈴木元会長は、日本にコンビニエンスストアを持ち込み、根付かせた大功労者であるが、残念ながら最後は辞めさせようとしたセブンイレブン・ジャパンの社長の退任を巡って反対を受け、「ブチ切れ会見」と称される記者会見で引退表明をして一線から退いた。

 そのニュースを見ていて、「もう八十を越えているのにいつまで権力にしがみつくのだろう」と嫌悪感を感じたものである。功成り名をなしたのであるから、あとは後継者に道を譲ってしかるべきである。せっかくの実績なのに「老害」とはまさにこのことで、「晩節を汚した」感があって大変残念な引退劇だと感じた。しかしながら、この本を読んで少しイメージが変わったところがある。

鈴木元会長の実績は言わずもがな。この本を読んでいて随所で感じたのは、「自分の考え方と同じだな」というところである。もちろん、大経営者が私と同じなどと自惚れているのではなく、自分の考え方もそう間違ってはいないという安心感である。「できないと言う前にできる方法を考える」などは、私も昔から意識していることである。世の中の真理と言えばそうであるが、それでも周りには「○○だからできない」という言い訳が溢れているので、強く感じる。

被災地に物資を運ぶドライバーが手配できないと部下が報告してきた時、鈴木元会長は「自分たちでなぜ行かないのか、誰も行かないのなら自分が行く」と怒ったらしいが、私も「できない」とか言われると、「なら自分でやるからいい」と思うクチである。事実、そうやって自分で言い切ってやって見せたことが多々ある。「どうやったらできるのか」という言葉は、まさに魔法の言葉の感がある。

「判断の尺度をお客様に合わせる」というのもそうで、例えば我が社でも入居者が退去してクリーニングをして新たに賃借人を募集するのだが、その時どうしてもクリーニングだけでは取り除けない「使用感」が残る。モノの宿命ではあるが、例えば新たに見学しに来た人に「古さ」を指摘されたりすると、「中古だから仕方がない」という意見が出てくる。それは事実だが、しかしそれはこちらの言い訳でしかない。相手もそれは十分承知の上なわけであるから、プロであるなら「どうしたらもっと改善できるのか」を考えないといけない。

そんな鈴木元会長の考え方を読んでいたら、「体は年をとっても頭の中は衰えない」という当然の事実に改めて気がついたのである。鈴木元会長はその時まで第一線を指揮していたわけで、そしてそれが組織全体の戦略として間違っていたわけではない。千代の富士のように「体力の限界!」を感じることもない。年というのは、周りから見たもので、本人の頭の中ではそんな意識もなかったのだろう。自分だって今でも頭の中では、ラグビーの試合に出て学生時代と同じように動ける気がするし、基本的な考え方は(進歩はしていると思うが)昔と変わっていない。

鈴木元会長も、周りの強い反対を押し切ってセブンイレブンやセブン銀行を成功させてきたわけであり、自分の考え方については自信を持っていただろう。社長を交代させようとしたのもきっとそれなりの根拠があったのだと思う。それを「老害」と断じてしまうのは正しくないだろう。そんな鈴木元会長に反旗を翻した人たちは、やっぱり自分たちが正しいと考えていただろうし、そうした意見が正面からぶつかっただけのことなのだろう。むしろ、そこで反対派を力でねじ伏せず、ブチ切れながらも潔く身を引いたと言えるのかもしれない。

元楽天の野村監督もまだまだ現役で監督ができると語っているし、当時の小泉首相に議員引退を勧告された中曽根元首相も「まだまだできる」と主張していたし、よくよく見まわせば、「まだまだできる」と主張する高齢者の例は多い。人間はボケない限り頭の中は変わらないし、世の中の「老害」の正体もよくよく考えてみないといけないのかもしれないと思う。新しい考え方についていけないという例もあるから一概には言えないが、単に年を取ったから「老害」と断じてしまうのは早計かもしれない。

50代の自分もあと20年すれば70代、30年すれば80代。会社が存続できていればたぶん働いていると思うが、その時周りにはどんな人たちがいるだろう。願わくば、もっと大きくなっていて、今はまだ見ぬ人たちに囲まれて働いていたいと思う。たぶん、その時の自分の考え方は今とそう変わらないはず。「どうしたらできるか考えよ」と部下に指示しているかもしれない。常に自分の知識をブラッシュアップしてアップデートしておきたいと思うが、それにも関わらず周りに受け入れられないこともあるかもしれない。その時、自分はどう考え、どんな行動ができるのだろう。

その時、「老害」と陰口を叩かれないようにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 「週刊文春」編集長の仕事術 - 新谷 学 「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室 (新潮文庫 フ 63-1) - キャスリーン・フリン, 村井 理子





2017年11月15日水曜日

論語雑感 為政第二(その13)

子貢問君子。子曰。先行其言。而後從之。
子貢(しこう)君子(くんし)()う。()(いわ)く、()()(げん)(おこな)い、(しか)(のち)(これ)(したが)う。

【訳】
子貢が君子たるものの心得をたずねた。先師はこたえられた。君子は、言いたいことがあったら、まずそれを自分でおこなってから言うものだ。
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「君子たるもの」を説く論語の言葉であるが、この言葉は「率先垂範」と言えるだろうか。もちろん、これはどこも間違っていないし、リーダーたる者の必要な心得であると思う。率先垂範がなぜ必要かと言うと、それはやはり「口ばっかり」のリーダーでは誰もついて行こうと思わないからだろう。人に「やれ」と言うだけでは、特にその内容が大変だったりすると余計である。

銀行を辞め、今の会社に転職してきた時、社長からは「現場にも出て欲しい」という話があった。それはもとより望むところだったので、内装工事の現場にも足を運び軽作業を手伝ったりした(技術を伴う作業は当然ながらやりようがない)。また、会社では毎朝全員で掃除をしているが、あえて時間のかかる作業と隔日でトイレ掃除を引き受けた。「率先垂範」というより、「口だけではない」ということを示したくて面倒な仕事を引き受けたのである。

さらに、入居者が退去したあとのルームクリーニングも自社でやっているが、その作業にも参加。こちらは難しい技術は不要で、手順を覚えれば見よう見まねでできるものである。さらにYouTubeを検索すれば、いまはご丁寧にその道のプロなどが解説動画を公開してくれている。覚えようと思えば簡単である。立場的には「役員」であって、机に座って指示だけ出していてもいいのだろうが、やはり現場に出ることによる目に見えぬ効果はあると思う。

先日、元セブン&アイホールディングス会長鈴木敏文氏の『わがセブン秘録』という本を読んだが、その中で震災時のエピソードが語られていた。被災地に物資を運ぶにあたり、ドライバーが確保できないという報告をしてきた部下に対し、「君たちが行かないのなら私が行く」と言ったという。さすがに会長に運転はさせられないと判断しただろうが、これも一種の率先垂範だと思う。

こうした率先垂範は、困難な物事だったり、面倒だったりするものほど有効だろう。そういう事をただ「やれ」と言われても、内心抵抗感が生じるが、リーダー自ら率先してやられたら嫌とは言えない。「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」(山本五十六)ではないが、人に何かをやってもらおうと思ったら、大事なことだと思う。

一方、ちょっとズレるが、「言ってることとやっていることが違う」というのは避けたいところである。私も家ではよく「電気の点けっぱなし」を妻に注意されるが、そういう妻はよく夜中に気がつくとリビングで電気を煌々と点け、さらにはテレビとエアコンまで点けたまま高鼾で寝ていたりする。私のちょっとした電気の消し忘れよりよっぽど電気料金への影響は大きいと思うが、家庭内の平穏維持のためには指摘などできるわけもなく、あえてグッと飲み込んでいるが、当然不満は残る。

考えてみれば、何でもそうだが人にものを言うということは「責任」を伴うわけであり、言葉と行動とが一致していないとその言葉は説得力を持たない。自ら語る言葉に説得力を持たせられるかどうかは、結局その人自身の行動ということになる。2,500年の長きにわたって伝わっている論語の、これもまた真理を表す普遍の言葉なのだろう。その真理に基づいて、自らの言葉と自分自身に説得力を持たせられるように自分もありたいと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 2030年ジャック・アタリの未来予測 ―不確実な世の中をサバイブせよ! - ジャック・アタリ, 林 昌宏 もうひとつの浅草キッド (双葉文庫) - ビートきよし