2016年10月10日月曜日

南スーダン派遣に思う

現在自衛隊は、国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)というのに参加し、南スーダンに海外派遣されている。南スーダンは内戦を経て2011年に独立を果たしたものの、依然として国境紛争や内戦の危機にさらされていて、国際社会が支援の手を差し伸べているわけである。かつては、自衛隊が海外に行くことについて、「侵略戦争につながる」として昔の社会党などがヒステリックに反対していたが、今はこうした国際協力ができるようになっている。実にいいことだと思う。

一方で、内戦状態にある地域に行くことは、武力衝突により双方に死傷者が出る可能性も含んでいるわけである。自衛隊員が殺す可能性も殺される可能性もあるわけで、よって「とんでもない」と反対する人たちもいる。特に11月からは自衛隊による「駆け付け警護」が行われる予定で、これはいよいよ現地情勢の悪化を示唆しているわけで、自衛隊による「交戦」の可能性も強くなっていると言えるわけである。この問題、どう考えればいいのであろうか。

国連のPKO活動とは、平たく言えば「喧嘩の仲裁」だ。喧嘩をするわけではないが、喧嘩の仲裁は時として巻き込まれるリスクがある。その点は覚悟しないといけないものであるが、ではだからと言って離れて見ているのがいいのか、が問われているわけである。反対派の人たちはこの点、どう思っているのだろうか。「反対」の声は聞こえど、「あっしには関わり合いのねぇことでござんす」と知らん顔すべきという意見は聞こえないのでわからない。ここのところは実に興味深く、意見を聞いてみたいと思う。

富めるものは、貧しきものを助けるべきかと問われれば、誰もが助けるべきだと答えるであろう。この場合、「富」とは金銭的なものだけであろうか。「平和」は含まれないのであろうか。自分たちが平和に暮らしていければそれだけでいいのであろうか。内戦で苦しんでいる人たちを救うことはしなくていいのであろうかと、思わずにはいられない。「平和憲法」と自慢する人たちには、それは「日本人の、日本人による、日本人のための平和憲法」なのかと問わずにはいられない。

軍隊には、「抑止力」というものがある。一時期ペルシャ湾で盛んにタンカーが海賊に襲われて話題となったが、各国が海軍を派遣して警戒にあたり、被害は激減した。海賊と言っても、貧しい武装しかなく、軍艦を襲えるものではない。丸腰のタンカーなら襲うが、軍艦がそばにいれば手を出さない。軍艦はその「存在だけで」、海賊に襲撃を思いとどまらせたわけである。これが「抑止力」だ。お巡りさんの姿が見えれば、泥棒も強盗も犯行をやめるというものである。

治安が不安定な南スーダンでは、誰もいなければ銃撃戦が始まり、弱い人たちは犠牲になり逃げ惑うことになる。しかし、そこに軍隊が駐留していれば、一定の抑止力が働き、銃弾が飛び交う事態もひとまず収まるかもしれない。こうした役割を先進国が担うのは、ある意味「ノブレス・オブリージュ」とでもいうべき責務ではないだろうか。そして我が国も先進国の一員であれば、「知らん顔」をしていいのかと思う。

「安保関連法案に反対するママの会」という組織が、自衛隊の南スーダン派遣反対に署名を求めている。合言葉は「だれの子どもも殺させない」としているが、現地で銃弾の下で震えている子どもたちは対象にはならないのであろうか。このサイトでは、南スーダンへの支援は「人道支援に限る」としているようであるが、内戦状態のところに「抑止力」なくしてノコノコ出かけていくことは、普通に考えても危険ではないかと思えてならない。

結局のところ、その主張するところは上辺だけのきれいごとでしかない。派遣される自衛隊の人たちには、誠に大変な任務だと思うが、是非現地の人たちに平和のおすそ分けができるように頑張っていただきたいと思う。安倍総理が所信表明演説で、「自衛隊員に敬意を」と呼びかけ、スタンディングオベーションとなったというが、その場にいたら一緒に拍手していただろう。
一国民として、エールを送りたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 
    

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