2016年2月3日水曜日

不投票の真意

先日、仕事の関係で某マンションの管理組合総会に出席した。
年に一回、住民が集まってマンション内の様々ルールを話し合う場である。
その中で、ある意見を巡って議論が紛糾した。

少数意見に属するその反対者の方は、自らの劣勢を挽回すべく、住民アンケートの実施を主張した。
その議題については、事前に欠席者は委任状かまたは「議決権行使書」と呼ばれる賛否意見表明書を提出しているのだが、反対派のその人からすれば、「その議題はいくつもの意見のうちの一つになっていて、みな注意していない」との主張であった。
「個別にその議題だけの賛否を問えば、答えも変わるはず」というものである。

議論を聞いていて、我が国の選挙の縮図を見ているような思いがした。
国政選挙も政党色が強い。
政党は支持しても個別の政策については、必ずしも全面支持というわけではない。
投票率も低い。
個別に賛否を問えば、昨年の「安全保障法案」に関する決議もどうなっていたかわからないだろう。

とはいえ、個別の政策について一々真意を問うのも非効率。
それはマンションも国政も同じ。
管理組合の総会も委任状・議決権行使書を除くリアルの出席率は総戸数の15%前後だった。
国政選挙の投票率より低い。
(もちろん、委任状・議決権行使書による「出席」が大半でそれゆえ総会は成立しているのであるが・・・)

ではリアルに出席していないからといって、あるいは選挙に行かないからといって民意を反映していないと言えるかというと、そんなことはない気がする。
「行かない」ことも一つの意見であって、無理に投票所へ連れて行ってなんでもいいから書いて投票させればそれでいいというものでもないだろう。
「どうでもいい」というのは、言い換えれば「決まったことに従う」という事とみなせるだろうし、それが最も実態に近いと思う。

そう考えれば、投票率60%で過半数の50%の得票率を得た政党は、「国民支持率30(60%×50)」ではなく、「国民支持率70%(30+決まったことを支持する人40%)」と言えるかもしれない。
選挙には積極的に参加している私であるが、区議会議員選挙などはたまにずっこけてしまうことがある。それは決して「関心がない」わけではなく、「何が決まっても大差ないのでそれでいい」と思う心があるからでもある。
それも立派な意思表明だ。

マンションの管理組合では、結局賛成派が多数で議案は承認された。
反対派は圧倒的少数で、当然納得はしていないだろうが、それも立派な住民の総意としての「民意」である。
今年はまた夏に参院選があり、選挙の年である。
いつも気になる妻の不投票にも、そう考えてくると穏やかにとらえられる。
これからは、投票率の低さを気にすることなく、選挙の結果を見守りたいと思うところである・・・


【本日の読書】
 

0 件のコメント:

コメントを投稿