2010年1月24日日曜日

歴史から学べるか

 今「永遠の0」という本を読んでいる。太平洋戦争の時に、特攻で亡くなった祖父の足跡を孫たちが訪ね歩くというストーリーだ。読んでいて感じるのは無情感。結婚したばかりだった祖父。生きて帰りたいと願っていた祖父。しかし、国家の事情と軍隊という過酷な状況がその前に立ちはだかる。
 
 英語では”We are on the same boat”という表現がある。日本語では「一蓮托生」。国家をボートと捉えるか蓮の葉と捉えるかの違いはあるとしても、いずれも同じ運命共同体にある事は同じで、一人だけ逃れる事はできない。そしてその行く先を一人の意思で変える事もできない。

 戦争ともなると一国民としてはどうにもならない。その祖父は志願兵であったが、一般人も所謂「赤紙」で徴兵された。「嫌だ」と拒絶できるものでもない。他の国でも徴兵拒絶は重罪だろうが、戦前の我が国においてはそんな事は死にも値する行為だろう。選択肢はないわけである。

 そして旧日本軍では人間が一番軽視される。一機の飛行機の方が一人のパイロットよりも大事なのである。特攻も最後は戦果よりも死ぬ事自体が目的となっていく。そうした状況下で、個人の意思など荒れ狂う波間に漂うボートの如きである。どうしようもない。

 そしてそれが怖いところは、「過去の不幸な時期の話」と一概に言い切れないところだ。確かに戦後は民主主義の世の中になり、冷戦なんかもあったが、現代日本においては再び戦争へ進むという事は極めて考えにくい。そういう事態になる事は、共産党や社民党のおばちゃんがなんと言おうとありえないだろう。

 現代では差し詰め危険水準にある国家財政であろうか。このままではいずれ破綻するのは確実である。なにせ税収よりも支出が多い状態が続いているわけで、改善の道筋は見えていない。氷山に向ってひたすら進むタイタニック号なわけである。戦前の我が国も、現在の我が国も向っている氷山が違うとはいえ、同じ状況にあるように思えてならない。

 いずれ何とかなるだろうとみんな考えているが、戦前の我が国で敗戦による国家破綻を予想できた人がどれだけいただろうか。自分も含めて想像できない事態について考える事を放棄してしまっているのではないだろうか。どうなるかわからないが、もしも氷山に衝突したら自分だけ逃れる事ができない事だけは確かである。その事だけでも認識しておくしかないのだろうか。

 効果のほどはともかくとして、せめて自作のいかだくらい作っておくべきだろうかと思ってみるのである・・・

        
【本日の読書】
お休み
     

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