2021年3月21日日曜日

To Be or Not to Be

先日、『ブレイン・ゲーム』という映画を観た。この映画は、「人の未来を見ることができる」能力を持った男が2人登場する。1人はその能力によって見えた未来から、連続殺人を犯していく。もう1人はFBIと協力してそれを阻止するというものである。連続殺人を犯す男が殺したのは、いずれも不治の重病によって苦しみながら死ぬ人たち。それを「苦しむ前に」殺すのである。これは果たして善か悪か。

 迷うまでもなく、「悪」であると答えたいところであるが、あるFBI捜査官の場合はどうだろうかと思う。その捜査官は連続殺人の犯人を追っているのだが、その最中、末期癌で余命宣告を受けてしまう。犯人の男はそれを知り、その捜査官を射殺する。追う男は憤りを感じるが、その葬儀で残された幼い子供を抱きしめた時、その子がスタンフォード大学に入学する未来が見える。それは、父親が殉職したからこその未来である。

 もしもそのまま父が病死した場合、なんの保証もなく大した蓄えもないので残された母子は困窮し、とても大学へなど行けない。しかし、殉職したからこそ補償が下りて子供は大学へ進学できるのである。父親の立場に立てば、どちらを選ぶかは言うまでもない。犯人の男は、その未来を突きつけ、同じ能力を持つ男に迫るのである。それでも自分を責められるのか、と。

 現実にはありえない映画の話であるが、それでもこういう能力を持っていたら、自分だったらどうするだろうと妄想する。それでも人を殺すような行為はやっぱりできないと思うが、ではそういう男を捕まえるために警察に協力する立場はどうだろう。FBI捜査官を射殺した行為を否定して捕らえる立場に立てるだろうか。たとえ残された家族が困窮しようとも、人を殺すことは悪であるといえるだろうか。

 もしもFBI捜査官の立場だったら、殺されることを回避しようと思うだろうかと考えると、おそらく殉職する方を選ぶだろう。どのみち余命宣告を受けている身であれば、死ぬまでの時間が何日間か違うだけである。であれば、残された家族が幸せになる方法を選びたいと思うのは人の常だろう。私にもしもこの映画のFBI捜査官の立場で自分の未来を見通す能力があって、殉職する未来と病院のベッドで病死する未来が見えたなら、殉職する未来を選ぶだろう。

 よく経済的事情から死を選ぶ人たちがいる。経営者の場合、会社が倒産すれば収入がなくなるばかりか自宅まで失うことになる可能性が大きい。それでも生きていればいくらでもやり直しがきくが、視点をその人個人ではなく家族に目を向けるとどうだろうと思う。生きて家族みんなで困窮した生活を送るのと、死んで保険金を残す(残せたら、であるが)のとどちらが家族のためであろうか。

 それは比べるまでもないと、安易に答えられるものではない。たとえばそれによって子供が進学を諦めて働くことになった場合、就職の選択肢はかなり狭まるであろう。もちろん、大学進学がすべてではないが、それは選択肢があってこその発想である。経済的に余裕のある状況で、それでも自分の子供に「大学へは行くな」と言う考え方の人であればいいが、そうでないなら「大学進学がすべてではない」と言うのは厳しい。

 もしも自ら命を絶つことで保険金が下り、それで家族が希望の人生を手に入れられるとしたら、果たしてどちらを選ぶべきだろうか。少なくとも一家の主たる収入に責任のある立場としては、安易に自分の「命が大事」とは言えない。経済的困窮から自ら命を絶つ人たちが一体どんな事情を変えていたかはわからない。もしかしたら単に「自分が楽になりたい」という単純な理由だったかもしれないが、家族の行末までも視野に入れたものであったとしたら、個人的には批難する気持ちは起こらない。

 本当のところを言えば、家族に困窮しても一緒に頑張ろうと言ってもらえるのが一番であると思うが、果たして自分は家族の中でそう言ってもらえる存在だろうかと考えるとどうも心許ない。先行き不透明な中小企業に勤めていると、下手をすると妄想ではなく現実の選択肢になる可能性がある。妄想はあくまでも妄想にとどめておきたいのは当然である。そんな選択肢を目の前に置かれることのないよう、しっかりと会社を支えていきたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 


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