2020年5月6日水曜日

幸福について

幸福は人が人生の目標として掲げる1つとして間違いないだろう。人は皆幸福を求めるものだろうし、求めない者などいないだろう。ではその幸福とは一体なんだろうか。コロナ自粛で家にこもっていると、そんなことをつらつら考えてみる。

とりあえず今自分は幸せだろうかと問うてみると、なんとなく幸せのような気がする。はっきり断言しにくいのは、「取り立てて不幸だという理由もないがもっと幸せになる要素があるような気がする」からである。貧困国に生まれて11ドル以下で生活する人に比べたら、我々日本人はそれだけで幸せだと思うが、不景気で失業し住むところも失うかもしれないと言う人にしてみれば、とても幸せなどといえないだろう。そういう意味で、幸福は相対的なものと言える。

しかし、例えば天涯孤独で仕事もアルバイトで食い繋ぎ、細々と一人暮らしをしている人がいたとして、その人が不幸かどうかは傍からは断言できないであろう。その人なりに少ない収入の中でも仲間と交流したり、ささやかな趣味に没頭したりとそれなりに幸せに生きているかもしれない。他人と比較して幸不幸を決めることは当然できない。金持ちで豪邸に住んでいても、不幸を抱えている人はいるだろう。そう考えると、幸福は絶対的なものであるとも言える。

幸福とは自分のものか他人のものか。一見、幸福とは自分の幸福だと思うが、そうでもない。例えば初詣でいつも神様にお願いするのは家族の健康。自分のことはお願いしない。家族が(特に子供が)健康で幸せであればというのが私の変わらぬ願い。幸福が自分のものかと考えてみると、ここにおいては子供や親(他人)のものである。ただ、それで自分が幸せになれるわけであり、そういう意味では幸福は自分のものでもある。

幸福は目に見えるものだろうか、それとも目には見えないものだろうか。なんとなく目に見えるものではないように思うが、子供が喜ぶ姿を見ているとたいていの親は幸せ感に包まれる。子供の喜ぶ顔という形で幸福は目にすることができる。子供に限らず、自分のしたことで誰か他の人が幸せになっているのを見ることは、とてつもない幸せである。そう考えると、幸福は目に見えるものである。

幸福は数えられるものだろうか、それとも数えられるようなものではないだろうか。なんとなく数えられるようなものではない気がするが、例えば結婚しても子宝に恵まれない人はいるもので、子供がいるということは間違いなく「1つの幸福」である。それと同様に、仕事があって収入が安定していること、家族が健康でいること、毎週末になんの気兼ねもなしに映画が観られること、これら1つ1つが幸せと考えれば、幸福は数えられる。

幸福に大きさはあるのだろうかと考えると、実はある。例えば安定した仕事があることは1つの幸福ではあるが、それで人生すべて幸せになれるというものではない。それは「1つの」幸せであり、「小さな幸せ」である。「週末の深夜に1人で映画を観る」というのは、私の幸せを感じる瞬間であるが、それが人生の幸せすべてではない。いわば「小さな幸せ」であり、「大きな幸せ」を構成する1つの要素と言える。そう考えれれば、「幸福には大きさがある」と言える。

幸福は一時的なものか、それとも永続的なものか。今、幸せかと問われてもそうだと答えても、明日には不幸になるかもしれない。禍福は糾える縄の如しで、今日は幸せを感じていても、明日は不幸のどん底に落ちるかもしれない。1つ1つの幸福は永遠のものではないが、その1つ1つが織りなす人生全体で見れば「いい人生」を送れた人は永続的な幸福を満喫できたと言えるかもしれない。そう考えると、幸福は一時的なものであり、永続的なものとも言える。

幸福は「長ければ長いほど良い」のだろうか。例えば交通事故で死ぬことは不幸であるだろう。では94年間幸せに生きてきて、最後に交通事故で死んだ人は不幸なのだろうか。なんとなくそうではない気がする。逆にずっと不幸な人生を送ってきた人が、最後は幸せに包まれて安らかに息を引き取った場合、その人は不幸な人生を送ったことになるのだろうか。これもなんとなくそうではない気がする。幸福は「長ければ良い」と言うものでもなさそうである。

人が幸福かどうかはどうしたらわかるのだろうか。例えばある人が火事で焼死したとしたら、その人は不幸なのだろうか。少なくとも周りの人はそう思うだろう。でももしそれが、子供を助けた末の焼死だったらどうだろうか。周りの人はともかく、(自分だったら)しっかり自分の子供を守っての死であればむしろ幸福だろう(もちろん、自分も死なないのが良いに決まっているが)。人が幸福かどうかは、結局その人でないとわからない。

幸福は量か質かという問題もある。小さな幸福が数多く集まれば大きな幸福になることは間違いないが、「これだけあれば幸せ」というのもあるだろう。そういう意味で、幸福は量でもあり、質でもあると言えるのかもしれない。とりとめもなく考えてみると、幸福はいろいろな角度から眺めることができる。突き詰めると、半分水が入ったコップを「半分しか」入っていないと考えるか、「半分も」入っていると考えるかの例ではないが、「考え方次第」と言うところもあるだろう。

何をもって幸福とするかは、人それぞれだろう。小さな幸福を積み上げる人もいるかもしれないし、今一瞬の幸福を追求するタイプもいるかもしれない。やっぱり幸福な人生を送りたいと思うが、それには何が自分にとって幸福なのかを考えないといけない。ただ漠然と幸福になりたいと思っていても、いつまでも追い求め続けて満足できないかもしれない。逆説的かもしれないが、幸福は「不幸でない」ことであるとも言える。自分が幸福なのかどうかわからなかったら、「不幸かどうか」を考えてみても良いかもしれない。不幸でなければそれでよし。それがすなわち幸福とも言える。

 人生折り返し地点は過ぎたと思うが、残りの人生を幸福に送りたいと思う。されど不安要素はたくさんある。多くは望まないが、不幸をできるだけ回避したいとは強く思う。自分にとっての幸福とは、「不幸でないこと」かもしれない。そんな幸福をこれからもずっと求めてもいってもいいのではないかと、家にこもりつつ思うのである・・・



→ 『幸せはお金で買えるか』



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