2019年9月30日月曜日

ワールドカップ観戦記

いよいよラグビーのワールドカップが始まった。思い起こせば日本開催が発表になったのは10年前10年前は開催国としてどのくらいできるのだろうかと案じてが、前回は南アを破り、そして今回はアイルランドを撃破し、決勝トーナメントに進出できるかどうかはわからないが、開催国として一応恥ずかしくないレベルの成績は残しており、素晴らしいことだと思う。選手や関係者の頑張りの結果であるが、日本人として誇らしく思う。

せっかくだからとアイルランド戦を観戦。友人が確保してくれた「ホスピタリティーパス」というのを利用。これはランチ付きイベントに参加し、そのあと観戦するというもの。イベントは元日本代表のアンドリュー・マコーミックを招いてのもの。まぁ、マコーミックにあまり興味はなかったが、海外ではこういうホスピタリティーパスは一般的らしく、海外からの観光客らが交じったランチはいい経験であった。

同じテーブルになったアイルランド人ご夫婦は、ワールドカップにあわせてアイルランド戦を観戦しつつ、国内を観光するのだと語っていた。アイルランドの試合は、横浜、静岡、神戸、福岡と予定されており、日程的にも資金的にも随分と余裕のあるご夫婦なのだと推察した(ホスピタリティーパスだけでも「ゴールドチケット」で117万円である)。世の中いろいろであるが、羨ましい限りである。

イベントが終わって会場となるエコパスタジアムへと移動する。様々な格好をした日本、アイルランド双方の応援をする人たちが溢れかえっている。熱気もうもうで、スタジアムのざわめきも雰囲気を盛り上げる一助となっている。このあたりはテレビ観戦では決して味わえない。現地で生観戦する醍醐味はこの会場の雰囲気も大いに貢献している。座席の横にはチームカラーのグリーンのスーツを着た紳士(?)のご一行が陣取っている。隣り合って自然と仲良くなる。

試合開始にあたって、双方の国家斉唱。全員が立ち上がって「君が代」から始まる。いまだに「君が代」に嫌悪感を隠さない人たちがいるが、このシーンを見たらどんな風に思うだろうかと感じる。当然ながら隣のアイリッシュご一行も立ち上がっている。試合はアイルランドが2トライを決めてリード。「やっぱり勝てないのか」と思いつつ、応援を続ける。日本がペナルティーゴールを決めて3点を返すと、隣のアイリッシュのおじさんも拍手してくれる。自分のチームは応援するが、相手への敬意も忘れないというのはいい感じである。

たまたま今はバレーボールもワールドカップをやっている。テレビでチラッと見たら日本に対する応援が過剰すぎるように感じた。当然ながら会場内には相手チームもいるわけであり、ただでさえアウェーなわけである。日本を応援したい気持ちはわかるが、行き過ぎてもいけないと思う。エコパスタジアムでも応援は圧倒的に日本の方が多かったが、そういう過剰演出はなく、さらに負けたアイルランドチームが引き上げる際、近くの日本のサポーターが盛大な拍手を送っていたが、見ていて気持ちのいいものであった(もちろん私も拍手を送った)。

隣のアイリッシュも最初は余裕だったが、後半日本が逆転して残り時間が少なくなると声を張り上げて声援を送っていた。「ヤバい」という気持ちが伝わってきて、なかなか心地いいものであった。そしてとうとうノーサイド。最後のプレーでは、なんでアイルランドの選手が蹴り出したのかわからなかったが、隣のアイリッシュもにっこり笑って握手を求めてきた。「まぁ負けたけどそれは今回の話であって、まだまだ実力はアイルランドの方が上」というゆとりのようなものがあったのかもしれない。敵味方一体となって心から楽しめたと思えた瞬間である。

今回、ワールドカップにあわせて来日する観光客は40万人らしい。その観光客が平均1週間滞在して、平均50万円を使うと想定されていて、経済効果はなんと2,000億円らしい。日韓関係の悪化から、今年に入って韓国からの訪日客が7月までで約20万人減少したらしいが、ワールドカップの開催でそれをはるかに上回る観光客が訪れるようであり、タイミングとしても良かったのかもしれない。日本には負けてしまったけれど、隣に座っていた、否、会場に来ていたアイルランドファンの人たちがみんな楽しんで帰国されるといいのにと心から思う。

残り2試合。日本代表には当然頑張ってもらいたいが、来日したラグビーファンの人たちが日本ファンになって帰ってくれることを心から願いたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 文庫改訂版 事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由がある (集英社文庫) - 橘玲 『ある男』無料試し読み (コルク) - 平野啓一郎



2019年9月24日火曜日

仁を支えるもの

前回、仁に基づいた行動が取れたらいいなという思いを抱いた事を書いたが、敢えて「常に仁に基づいた行動を取る」としなかったのには理由がある。まぁ、自分自身そんな聖人君子ではないというのももちろんであるが、それ以外にも不確定要素として「経済環境の変化(悪化)」があるかもしれないからである。今は中小企業なりと言えどもそれなりに収入があって安定している。その状態では理想を語れるのであるが、そうでなくなった場合、自分自身どう考えるかわからないからである。

たとえば現在、仕事で多額のお金の管理を(会社で)行っている。もしも、会社が倒産した場合は、これを誰かに引き継がないといけない。しかし、そうはせずにこのまま持ち逃げ(あるいは横領)しないだけの自制心は働くだろうかと考えてみると、「大丈夫」だと言い切れる自信はない。責任は会社にあるわけであるが、その会社が倒産となれば混乱に紛れて持ち逃げしてもわからないかもしれない。自らが窮地に陥った中でそんな考えが脳裏を過ったとしたら、果たして正しい行動が取れるであろうか。

お金に困るというのは、本当に辛いことだと思う。たとえば私も収入を失ったとしたら、まず住宅ローンの支払いの心配が頭を過る。なぜならそれは住むところを失うという恐怖とイコールだからである。自分一人なら全然平気であるが、家族がいる身としてはこれ以上にないくらい辛いことであろう。そんな時に、目の前にお金があったらいくらそれが他人の金であったとしても、考えるのは「どうやったらうまくごまかして懐に入れられるか」だろうと思う。

「お金で幸せは買えない」とはよく言われることである。それはその通りだろうと思うが、一方で「しかし不幸を追い払うことはできる」と続く言葉もある。人が人として正しい行動が取れるか否かは、ひとえに経済的豊かさがあるかどうかが影響すると思う。戦後の混乱期、誰もが違法な闇市を利用していた。有名な話だが、ある真面目な裁判官がそれを拒否して配給だけで生活して餓死したという話があった。それはそれでとても立派な行動だと思うが、多くの人が違法行為をして生きていたのである。そしてそれを批判することは誰にもできないだろうと思う。

もちろん、経済的に困窮したら犯罪行為に手を染めてもいいと言うつもりはないが、一方で正しい行動(仁に基づいた行動)が取れるか否かには、経済的な生活の裏付けが必要だろうと思うのである。マザー・テレサは貧しい中で献身的に人々に愛を以って尽くされたが、そういう人は誠に立派であるが、凡人には難しいかもしれない。孔子の説く仁を以って生きるスタイルをどこまでできるかはわからないが、少なくとも現在の収入を維持していないといけないだろう。

世の母親が我が子を公務員にしたいと思うのも、学生がとにかく安定した一部上場企業に就職したいと思うのも、まずはしっかり生きていくという当たり前のことを求める上では当然だと言える。今は、不安定極まりない中小企業に身を置く立場としては、一生懸命会社が潰れないように頑張るしかない。それが「仁に基づいて生きられるか否か」を問う前に必要最低限の条件になる。より正しく生きるためにも、頑張って働きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 アウトルック最速仕事術 - 森 新 『ある男』無料試し読み (コルク) - 平野啓一郎





2019年9月19日木曜日

論語雑感 里仁第四(その5)

〔 原文 〕
子曰。富與貴。是人之所欲也。不以其道得之。不處也。貧與賤。是人之所惡也。不以其道得之。不去也。君子去仁。惡乎成名。君子無終食之間違仁。造次必於是。巓沛必於是。
〔 読み下し 〕
()()わく、(とみ)(たっと)きとは、()(ひと)(ほっ)する(ところ)なり。()(みち)(もっ)てせざれば、(これ)()とも()らざるなり。(ひん)(せん)とは、()(ひと)(にく)(ところ)なり。()(みち)(もっ)てせざれば、(これ)()とも()らざるなり。(くん)()(じん)()りて、(いず)くにか()()さん。(くん)()終食(しゅうしょく)(かん)(じん)(たが)こと()く、造次(ぞうじ)にも(かなら)(ここ)(おい)てし、顚沛(てんぱい)にも(かなら)(ここ)(おい)てす。
【訳】
人は誰しも富裕になりたいし、また尊貴にもなりたい。しかし、正道をふんでそれを得るのでなければ、そうした境遇を享受すべきではない。人は誰しも貧困にはなりたくないし、また卑賤にもなりたくはない。しかし、道を誤ってそうなったのでなければ、無理にそれをのがれようとあせる必要はない。君子が仁を忘れて、どうして君子の名に値しよう。君子は、箸のあげおろしの間にも仁にそむかないように心がけるべきだ。いや、それどころか、あわを食ったり、けつまずいたりする瞬間でも、心は仁にしがみついていなければならないのだ。
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 今回の言葉は非常に重みのある言葉であると思う。人は誰しも金持ちになりたいと思うだろうし、人の尊敬も集めたいと思うだろう。ただ、それらのものを手に入れたとしても、たとえば悪いことをして手に入れたのでは何の意味もない。当たり前と言えば当たり前であるが、その当たり前が難しいものであるのも事実だと思う。たとえばお金に関して言えば、犯罪行為に手を染めるのは極端なものとして、ちょっとしたズルをする誘惑に勝てるかと言うと、どうだろうかと考えてしまう。

 たとえば知人に宝くじを買ってくれと頼まれ、お金を立て替えて買ったとする。ところが知人はそれを忘れていて、ふと気がついて番号を調べたところ、なんと1等賞金の1億円が当たっていたとする。その時、正直に知人に連絡して当たりくじを渡し、代金だけをもらって祝福できるだろうか。もしかしたら気前よく折半になるかもしれないけど、分け前がいくら期待できるかわからない中で素直に知らせるだろうか。「買い忘れちゃった」と一言詫びれば1億円を手に入れられるのである。正直言って、私の場合、「知人に知らせる」と断言できるほど聖人君子である自信はない。

 もっと身近な例で考えてみる。たとえば『正直不動産』というマンガがある。ある神様の祟りで嘘がつけなくなった主人公が、嘘で塗り固める得意の不動産営業ができなくなるお話である。同業者として興味深く読んでいるのだが、もともと主人公は「お客さんの利益より自分の営業成績が大事」というトップ営業マン。手段を問わずに結果だけを重視しており、まさに孔子の禁ずる「其の道を以ってせざる」ことに他ならない。では、自分の出世を犠牲にして正しい道を貫けるであろうか。それができなかったのが、東芝の不正会計事件である。

 逆に「其の道以って」行ったために、不遇をかこつということも大いにあるだろう。先の『正直不動産』の主人公もそれで上司に睨まれてしまい、ライバルには差をつけられてしまう。その昔、銀行でも「何でこの人出世しないのだろう」と不思議に思う人がいた。仕事もよくできるし、部下の面倒見も良い。ただ、「世渡り下手」という感じはしていた。「そういうものなんだろう」と思っていたが、後から振り返って「またお会いしたい」と思うのはそういう上司であって、いわゆる「やり手」とされていた上司ではない。

 孔子の説く内容もそういうことなのだろうと思う。真面目に正しく生きていれば「お天道様はちゃんと見ていて下さる」というのは、日本人的には受け入れやすい考え方だろうと思う。昔話でも最後に報われるのは必ず正直爺さんである。ただ、これも難しいだろうと思う。人にはどうしても他人と自分を比べてしまう性分がある。妬みや嫉みは人の常。だから意地悪爺さんがいて、最後にしっぺ返しを食うことになる。誰もが正直爺さんになろうとは思うが、現実にそう振舞えるかは別である。

 逆に不遇をかこっている場合、やり切れない思いを慰めるのは、「自分は正しい道を歩いている」という自覚だろう。東芝の事件でも、もしかしたら「これはまずいんじゃないですか」と意見具申した人はいたかもしれない。でもそういう人は疎まれてきっと出世の道からは外れるだろう。孔子はそんな場合でも焦る必要はないと言う。「お天道様はちゃんと見ていて下さる」に通じる考え方である。まったくその通りだと思うが、自分の立場がそうなった時に、「実践できるか」となると、そうでありたいとは思うものの自信はない。

 君子はいかなる時も仁の道を外れてはいけないとする。だが、とてもではないが、自分は君子ではない。君子であろうとする者は自覚すればいいが、出自からして圧倒的庶民の自分としては、とてもではないが志せる道ではない。せいぜいが悪事に走らないように自制するくらいである。が、それとて家族を養わなければならない身で窮地に陥った時にはどうなるかわからない。

 ただ、やはり人として孔子の説く仁の人でありたいとは思う。どんな境遇にあっても仁に基づいた行動が取れるのであれば、それこそ孔子の説く君子なのであろう。そうはありたいとは思うものの、改めて君子の道は遠いなと思うのである・・・




【本日の読書】
 日替わり弁当のみで年商70億円スタンフォード大学MBAの教材に 東京大田区・弁当屋のすごい経営 - 菅原 勇一郎 充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5) - カズオ イシグロ, 幸, 古賀林





2019年9月16日月曜日

クラッシック・コンサート

 久しぶりにクラッシックのコンサートに行って来た。場所はサントリーホール。前回行ったのはいつだったかすぐには思い出せないほど久しぶりのコンサートであった。個人的に「立って聴く」というのが嫌なので、普通のポップスなどのコンサートには絶対に行かないが、「座って聴ける」クラッシックは別である。聞きに行ったのは、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で、ビバルディの『四季』とホルストの『惑星』という極めてメジャーな作品であった。

 そもそもクラッシックは大好きというほどではないが、「聴かない」というほどではない。我が家にもバッハやエルガーなど片手では足りないほどのCDもあるくらいである。その昔は、音楽の趣味と言えばクラッシックだったようである。60年代を舞台にした青春映画(例えば『無伴奏』)などを観ていると、若者たちは普通にクラッシックを聴いているし、『ドラえもん』では、スネ夫が新しいクラッシックのレコードが手に入ったとしずかちゃんを誘っていたシーンもあった。そういう時代はすっかり過去のものである。

サントリーホールには、やっぱりその世代の方が多いように感じられた。派手なレーザービームも大音響もないが、咳払いさえ隅々まで響き渡っていくような静けさがいい感じである。いよいよ楽団員が入ってきて楽器を手にする。この時、各々が楽器の音合わせをするのだが、なぜかこの音合わせの雰囲気が個人的に結構好きなのである。そしてヴァイオリン(今回は木嶋真優という方)が入ってくる。楽団員は全員黒の衣装だが、このヴァイオリンだけが赤いドレス。もちろんヴァイオリン協奏曲集『四季』にあってはメイン奏者になるわけだし、それだけの実力者なのだと思うが、他にもヴァイオリン担当の人は多数いるわけであり、その差はなんなんだろうと思ってみる。

東京フィルハーモニー交響楽団だって入るのは簡単ではないようだから、その他大勢の中でヴァイオリンを弾いている人だって、芸大とか音楽関係の大学を出たりしていると思う。幼少時から練習を積み重ねてきているだろうし、多分私なんかが両者の演奏を聴いてもどちらが優れているかなんてわからないと思う。先日読んだ『ザ・フォーミュラ 科学が解き明かした「成功の普遍的法則」』という本によると、各コンクールで賞を取ったりするのは過分に「運」の要素も強いようであるから、そんな「運の差」なのだろうかと思ってみたりする。

肝心の演奏の方であるが、ビバルディの『四季』もホルストの『惑星』もどちらも聴き知った曲である。東京フィルハーモニー交響楽団の指揮者は首席指揮者のアンドレア・バッティストーニ。国際的に名高い指揮者らしいが、もちろん私は知らない。指揮者によって同じ音楽でも変わるというが、そんな違いを聞き分けられるほど音楽に精通してもいない。有名な「春」からスタートした演奏をただただ聴いていただけである。「春」以外にも幾度も聴いたことがある旋律は、聴いていて安心感がある。馴染みの店に入って「いつものやつ」を頼む感じであろうか。

ホルストの『惑星』は、通しで全部聴くのは初めてかもしれない。平原綾香が歌ってヒットした有名な「ジュピター」はみんな知っているだろうが、やっぱり平原綾香の歌よりもオーケストラの演奏の方がはるかに好きである。それにしてもオーケストラには様々な楽器が参加している。「出番」の多い楽器の人はいいだろうが、シンバルやトライアングルなんかは待機が多い。最初から「シンバル専門」「トライアングル専門」ではないだろうし、多分、「やってくれ」と言われてやっているんだろうなぁなどと想像をしてしまった。

オーケストラはチームプレーであり、当然中心となるコンサートマスターからシンバルやトライアングルの担当まで分かれている。それぞれがそれぞれの役割を果たすことによって曲全体が出来上がっているわけで、誰一人欠けても具合が悪いわけである。一つ一つの楽器の音だけを単独で聴いたらおそらくわけがわからないだろうが、統一されることで素晴らしい音楽が出来上がるわけである。誰もがコンサートマスターに憧れるのだとは思うが、トライアングルも大事。みんな自分の役割を一生懸命果たしているからいい演奏になっているのである。そんなことをつらつら考えながら、約2時間を堪能したのである。

次回は来月。場所も同じサントリーホール。曲目はビゼーの『交響曲第1番』とリストの『ファウスト交響曲』。普段あまり聞かない曲であるが、これはこれで楽しみにしたいと思うのである・・・




【先週の読書】
 変革のアイスクリーム---「V字回復」を生んだ13社のブランドストーリーに学ぶ - 新井 範子 充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5) - カズオ イシグロ, 幸, 古賀林






2019年9月12日木曜日

愛は惜しみなく与う

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
コリントの信徒への手紙13
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実家の母親と接していると、今さらながらではあるが、母親の「無償の愛」というものを感じる。我が息子に対する絶対的な愛情というべきものである。どんな状況にあっても息子を信頼し、そして支持するという姿勢である。たとえは悪いが、私が犯罪者になったとしたら、おそらく妻はすぐに離れて行くだろうが、母親だけは最後まで味方でいてくれると信じられる。それは我が妻の息子に対する愛情を見ていても思うところで、当然と言えば当然なのかもしれない。

そんな我が母親は、ならば聖女のような人間かと言えばそうではなく、他人に対しては不寛容である。たとえば、母は人に何かモノをあげた場合、必ずお礼を期待する。我が家の嫁姑戦争の発端の一つはそんなささいなやり取りであった。息子が来たから野菜などを家族で食べろと持たせて帰らせる。しかし、「嫁はそれに対してお礼の電話もよこさない」となる。妻は妻で息子がお礼を言っているので、「我が家としての礼は済み」と考える。その逆もまたあり、母の日や誕生日にプレゼントをしても、私は礼を言われるものの直接礼を言われない妻は、「自分には礼がない」と憤る。どっちもどっちである。

およそ人に何かを自主的に(して)あげようとするのであれば、見返りなどを求めるものではないと私は思う。しかし、母にこの理屈は通らない。「人にモノをもらったらお礼を言うのは当然だから」である。確かにその通りであるが、しかし一方で「お礼は要求するものではない」だろう。頼まれてやってあげたのならまだしも、自分が自発的に相手にしてあげたのであれば特にである。「相手の喜ぶ顔がみたい」、「喜んでもらいたい」と思ってやったのであれば、お礼などなくても問題ないはずである。

ところがそうではない。先日、従兄と話をしている時にも同じようなケースがあることを聞いたから、これは我が母に限らず、多くの人に当てはまることのような気がする。その裏には、「喜ぶ顔がみたい」と思ってやったのに、「喜んでくれなかった」という無念があるのかもしれない。お礼とはすなわち「喜び」だからである。「喜んで欲しかったのに喜んでくれなかった」というのは、ちょっと子供じみた不満かもしれないが、「お礼がない」と言って怒るのは違うだろう。それではまるで「押し売り」と変わらない。相手に(自分の)良かれと思うものを押し付け、お礼を強要するのは、「お礼」を「お金」と置き換えれば「押し売り」に他ならないだろう。

人に頼まれもしないのに相手のためを思って何かを(して)あげたりするのは、非常に良いことだと思う。しかし、それはあくまでも自分が進んでやったことであるから、当然「無償」でなければならない。「お礼」を期待するものではなく、受け取ってくれたことをもって満足すべきである。お礼を言ってもらえなくて嫌ならば、次回からしなければいいのである。勝手なことをして勝手に怒るというのは、考えてみれば酷い有様である。もらった方としてはいい迷惑であろう。

 「私がこんなに愛しているのに相手は全然私を愛してくれない」と憤るのは理屈が違う。勝手にものをあげて「お礼がない」と怒るのは、実は同じことである。お礼を言ってもらいたい気持ちはよくわかるが、「お礼を言ってくれない」と言って怒るのは筋が違う。相手のためを思って(して)あげたのであれば、それだけで満足するべきなのである。しかしたぶん母の場合、私がお礼を言わなかったとしても何も言わないだろうと思う。そこには「無償の愛」がやっぱり生きているのである。

 その昔、母がいろいろと何くれとなくしてくれようとするのであるが、若かりし頃の私はそれが煩わしくて仕方がなかった。それは態度でも言葉でも露骨に表していたが、母はそれ以後もせっせとものをくれている。それは誠にありがたい行為であり、だからこそ最近では何でもありがたがってもらうようにしているのである。それで母が嬉しいと思うのなら、それもまた親孝行だろうと思うようになれたということである。その気持ちを誰にでも向けたらいいと思うのだが、どうもそこにまでは至らないようである。

 恋愛も初期の頃は愛する相手のためには犠牲をいとわずであるが、時を経れば「いい加減にしろよ」となる。「愛とは見返りを求めない」ものであるはずなのに、そうした無償の愛は時を経て喪失してしまう。されど我が子に対する愛情だけは永遠なのだろう。それはそれでいいと思うのであるが、贈り物も「見返りを求めない」ものであるということをみんなしっかり理解すべきなのではないかと思うのである・・・




【本日の読書】
 変革のアイスクリーム---「V字回復」を生んだ13社のブランドストーリーに学ぶ - 新井 範子 充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5) - カズオ イシグロ, 幸, 古賀林






2019年9月9日月曜日

ラグビーと「日本人」

いよいよラグビーワールドカップの開催が目前に迫って来た。「4年に一度じゃない一生に一度だ」というキャッチフレーズは至極である。世界ではオリンピック、サッカーのW杯と並んで「世界3大スポーツイベント」とされるラグビーW杯であるが、サッカーに比べると我が国でのラグビー人気はイマイチである。それでも長年プレーしてきた身としては、これほど面白いスポーツはなく、その最高峰のW杯が日本で開催されるのは誠にもって楽しみである。

そのW杯に出場する我らが日本代表のメンバー31人が発表されたが、その半分に当たる15人が「外国出身」の選手である。ラグビーをあまりよく知らない人からすると、これはどうにも不満の残ることのようである。「日本チームとは言えないじゃないか」とでもいう感覚なのであろうか。ただ、これは各国共通の国際ルールであり(日本が決めたわけではない)、ルールの中でやる以上、仕方がないことでもある。

ラグビーの場合、日本代表資格取得の条件が他の競技と違っており、次のようになっている。
1.   出生地が日本
2.   両親または祖父母のうち1人が日本出身
3.   日本に3年以上継続して居住している(2021年からは5年以上)
上記のいずれか一つをクリアしている必要がある。

 特に違和感の原因となるものが「3」の条件だろう。それでも一度どこかの国の代表になると、他の国での代表資格を失うので、そういう意味で外国出身選手にとって日本代表になるということは母国での代表資格を失うことになる。そういう覚悟を持っているということは確かである。それに各国代表も似たような状況で、前回のW杯で自国出身選手だけの純潔チームはアルゼンチンだけだったという。だが、それでも違和感は拭えないのだろう。

 ではハーフはどうかというと、多少違和感は緩むようである(今回の代表メンバーの中にもいる)。最近は世界で活躍する日本人にハーフの選手が目につくようになっている。テニスの大坂なおみ、陸上のケンブリッジ飛鳥、バスケットボールの八村塁・・・やっぱりスポーツともなると、外国人(特に黒人)の運動能力は日本人よりも優れているのだと思わざるを得ない。それゆえに、優れたDNAが半分入っているだけでも身体能力が優れる結果になるのかもしれない。ハーフでも半分日本人の血が入っているとなると、違和感は薄くなるところがあるようである。

 では、国籍ならどうであろうか。実は日本代表15人のうち、主将のリーチ・マイケル選手を含め6人が日本国籍保有者である(代表資格には関係ない)。それを聞くと、また多少違和感は少なくなるみたいである。最近は大相撲の白鵬も日本国籍を取得したとニュースでやっていたが、やはり国籍を取得するということは大きな決断であり、そうすると応援しやすくなるみたいである。いろいろ考えると、改めて「日本人」ってなんだろうと思ってしまう。

なぜラグビーの代表資格がこれほど緩いのか(特に「3)。一説によると、イギリス人がその昔世界各地に進出した際、現地の代表に入りやすくするためだったと言う。その真偽はよくわからないが、世界各国が共通ルールでやっている以上、それはそれで変な「日本人意識」は捨てて日本代表を応援したいと思う。それにしてもやっぱりラグビーというスポーツは、体と体のぶつかり合いであり、やはり体の大きな方が有利だということは否めない。特にフォワードにはそれが顕著であり、だから外国出身選手15人中10人がフォワードなのである。

日本人の平均身長と体重は、2629歳で171センチ69.5キロらしいが、例えばイギリス人は178センチ83.9キロらしい。同じ180センチでも母集団の平均が高ければそれだけ激しい競争を勝ち抜いてきての180センチなわけで、「体格的には負けていない」としても、やっぱりスキルも含めたトータルで負けてしまうのだろう。そういう事情を鑑みると、この代表資格の国際ルールは日本に有利に働いているのは事実だと思う。

何れにしても、ラグビーそのものはどこのチームだろうと面白いし、そういう意味では今回は日本代表以外の試合もたくさん観たいと思っている。もちろん、我らが日本代表にも頑張って欲しいのは当然である。個人的にはあまり違和感もないし、みんな日本代表チームの一員として頑張って、そしてできれば決勝トーナメントでその勇姿を観たいと思う。そんなW杯日本大会を大いに楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 挑む力 桑田真澄の生き方 (集英社文庫) - 桑田 真澄 砂の女(新潮文庫) - 安部公房





2019年9月4日水曜日

論語雑感 里仁第四(その4)

〔 原文 〕
子曰。苟志於仁矣。無惡也
〔 読み下し 〕
()()わく、(いやし)くも(じん)(こころざ)せば、()しきこと()きなり
【訳】
先師がいわれた。
「志がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行なうことはない」
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古典に学ぶべきことが多いとはあちこちで言われている事であり、それを否定するつもりはない。かつて岩波文庫の論語を買って読んだが、もうすっかり忘れてしまっている。そこで改めて一つ一つ読み直しているが、その時心に浮かんだ諸々の雑感をここに記している。あくまでも感じたことであり、論語の解説では当然ない。岩波文庫の訳など、今読み返してみても意味がわからなかったりするから、そんな解釈は専門家に委ねるところで、ここはあくまでも雑感である。

 ここで言われているのは、まずは「志」が大事ということである。「仁」を志していさえすれば、たとえ結果が間違ったとしても悪事になることはないということはなんとなくわかる。世の中、志が良くても結果が伴わないことはよくある。「ありがた迷惑」なんて言葉がある通りであり、親切心からやっていただいているのに、かえって迷惑してしまうということは多々あるものである。また、せっかくの好意なのに無駄になってしまうとか、「良かれと思ってやったのに」なんてこともよくある。

 たとえば、実家へたまに帰ったりすると、帰り際に私の母親は何くれとなく持たせてくれようとする。それは田舎からもらってきた野菜だったり果物だったり、何もなくても冷蔵庫に入っていたコーヒー飲料だったりビールだったり。先日は自分で食べたくて買ったが食べきれないという小分けのお菓子であった。車で行く場合はともかく、会社帰りになど電車で行く場合は荷物になる。本当は何もいらないのであるが、ありがたがってもらうと嬉しそうなのでそれがためについついもらって帰る。親孝行だと思えば多少の重さもなんのそのであるからいいのであるが、素直にありがたいと思うようにしている。

 また、そんなことをツラツラ考えていると思い出すのは、O・ヘンリーの小説『賢者の贈り物』である。ある貧しい若い夫婦がクリスマスを前にして途方に暮れている。互いに愛する相手にお金がなくて何もプレゼントできないのである。そこでそれぞれが一計を案じ、自分の大事にしていたものを売って(あるいは質に入れて)お金を作り相手にプレゼントを買う。ところが・・・というお話である。初めて読んだのは中学生くらいであったかと記憶しているが、心が温かくなる感動を味わったのを覚えている(「こんな夫婦になりたいな」という当時の淡い思いは、冷たい現実を前に儚い思い出になってしまっている)。

 『賢者の贈り物』は、せっかくのプレゼントがお互いに役に立たなくなってしまっていたが、自分の大事にしていたものを犠牲にして相手のためのプレゼントにしたというもの。そこにあるのは自分の事よりも相手の喜ぶ顔を見たいという気持ち。その気持ちこそが読む人の感動を誘う。無駄になったという結果よりも、気持ち(≒志)という部分では、今回の言葉に相通じるものがあると思う。

 何事も結果が伴うのが一番であると思う。だが、残念ながらいつも結果が出るとは限らない。それをやった方がいいのか、それともやらない方がいいのかと迷うこともある。「ありがた迷惑」かもしれないと思う時もあるかもしれない。そんな時、原点に戻って「志」を確認すべしというのが、今回の教えということになるのだろう。稲盛和夫さんも大事な意思決定の時には、「志善なるや」を自らの心に問うていたという。考え方としては同じだと思う。

『賢者の贈り物』の夫婦のようにはもはやなれないかもしれない。ただ、親の「ありがた迷惑」は素直にありがたいと思うことはできる。自らの志もそうであるが、相手の志も理解できるようでありたい。改めてそんなことを思うのである・・・




【本日の読書】
 『戦争論』入門 クラウゼヴィッツに学ぶ戦略・戦術・兵站 - 清水多吉 キャバレー - ビート たけし






2019年9月2日月曜日

怒ること

この頃、些細なことでよく妻と息子が喧嘩をする。大概が妻のお小言に対して、息子がキレて口答えをし、それがまた妻の逆鱗に触れると言うパターンである。いつもは2人の口論を聞き流している私であるが、先日はあまりにもヒートアップしすぎた感じがしたので、間に入ることにした。息子に対し、「ちょっと来い」と別室に連れて行ったのである。最初は渋っていたものの、私が睨みを利かせたこともあって渋々ついてきた。

別室で怒鳴られるものと思っていたのか、息子はふてくさた態度を取っていたが、私は静かに「お前の気持ちもわかるけどな・・・」と話し掛けた。息子は中学2年。背丈は私と同じであり(体重は20キロ軽いが・・・)、もう怒られるとそれ以上反抗できなかった子ども時代とは違う自信のようなものが出てきて、それで母親にも強く言い返すようになったのだろう。私にも覚えがある。てっきり怒鳴られると思っていたのに、肩透かしを食ったようで、息子もすぐに私の話に耳を傾けてきた。

私はもともと、息子が悪いとは思っておらず、従って怒るつもりなど毛頭なかった。少しクールダウンさせようと妻から引き離しただけである。そしてそもそもの発端となった些細な出来事についてどう思うか尋ねたところ、息子も自分が悪いとよくわかっていた。あとは簡単、しばし雑談したあと、息子は自分から妻に謝りに行くと言って戻って行った。そんなものである。初めから小うるさく言わなければ息子も反抗するまい。喧嘩の原因は過分にして妻の過干渉にある(もちろん、妻本人は気付いてすらいない)

およそ、中学生にもなれば半分大人である。頭ごなしに言って言うことを聞かせる年ではない。そろそろ「自己責任」を意識させて行動させるべきだと私は思う。例えば、朝何度も起こすのではなく、本人に自分で起きるようにさせるべきなのである。起きられなくて遅刻したらそれは自分の責任。怒られたくなければ自分で起きる工夫をするだろう。それを寝る時間から事細かく口うるさく言うから、双方がイライラする結果となるのである。

およそ人を怒る時、その目的は何かを意識しないといけない。私もただ甘いだけではなく、息子が何か人としてマズイことをしでかしたら雷を落とすつもりである。怒って目を覚まさせることが目的なら、本人が震え上がるほど怒ればいい。行動を促すなら牛や馬ではあるまいし、鞭で叩いても上手くはいかない。本人が自分で気づくように持っていく工夫が必要である。

それは子育てだけではなく、仕事で部下に対する時もそうである。ミスをしたから怒るのではなく、そのミスがどういう原因なのか、どうしたら再発を防げるのか。怒ることがその目的に叶うならいいが、そうでなければ怒っても仕方あるまい。大事なことは本人が反省することであり、再発防止の意識を強く持つことであり、そのことを認識させることができることである。それができれば別に怒る必要もない。私も今の会社に来て以来、部下を怒ったことはない。

人には感情があって、それをうまく理解しないと人間関係はうまくいかないと思う。娘が将来、結婚したいという男を連れて来て、その男が親の目から見てどうにもヒドイ男だったとする。その場合、頭から反対しても逆効果である。よくドラマなどでもあるパターンであるが、反対されればされるほど余計相手の男に対する気持ちは強くなり、親への反発も強くなる。ロミオとジュリエットの悲恋も双方の親同士が対決していなかったら、そして2人の交際に反対していなかったら、あそこまでの悲劇にはならなかっただろう(名セリフも生まれなかったはずである)

私だったら、まず相手の男を歓迎するだろう。もちろん、結婚にも反対はしない。ただ、後で娘と2人っきりになった時、相手の男の気になる点をそれとなく娘に尋ねるであろう。「どう思う?」あるいは「大丈夫?」と。もしかしたら娘も気にしているかもしれないし、そうしたら自分の経験則に基づいて、どういうリスクがあるか、どういう心配な例が考えられるかを教えて一緒に考えるだろう。もしかしたら、娘も迷っているのかもしれないし、結論はわからないが、少なくとも頭から反対するよりはずっとマシな結果になると思う。

まぁ、そんなくだらない妄想が現実化して欲しくはないが、相手の心に響かせようと思ったら、強引に叩いてもダメだと思う。ポイントを掴んで静かに叩いた方が心に響き渡っていくと思う。ヒートアップしていた息子も私と話し始めて1分も経たないうちにクールダウンしていった。あそこで私が怒鳴っていたら、息子はさすがに表立って反抗はしなかったかもしれないが、心は閉ざして心の中で悪態をつきまくっていただろう。あるいは父親にまでふてくされた態度を取り、私もやむなく父親の威厳を保つためにひっぱたくくらいしていたかもしれない。

考えてみれば、怒る必要なんてそんなにないのかもしれない。それが必要なケースというのもあるだろうが、それはよっぽどのケースであり、少なくとも妻のように2日にいっぺんなどというペースはあり得ないだろう。息子が思い通りに動かないからといって怒っても息子は思い通りには動かないわけだし、気にくわないからと言って結婚に反対しても親子喧嘩の結果、親子関係の断裂などというケースになるのだろう。ロミオとジュリエットの悲劇が成り立つ所以である。

そうしたところをよくよく理解し、どうやったら相手の心に響くのか、冷静に考えて工夫することが必要だろうと思う。相手を思う通りにコントロールしたいと思ったら、必要なのは怒りに任せた感情ではなく、高度な心理的テクニックなのだと思う。怒るのが嫌いな性格だということもあるが、そんなことを考えていることもあり、どうやら自分は「雷親父」「鬼上司」にはなれそうもないと思うのである・・・




【今週の読書】
 新聞という病 - 門田隆将 新・考えるヒント - 池田 晶子