2019年3月18日月曜日

ルーティン化の罠

初めてのことを始める時は、何事も手探り状態であるわけで、それなりに一生懸命考えて取り組むものである。それが2回目となると前回の経験を生かしてできるわけであり、とても楽になる。3回目以降は、すでに実績ある方法を踏襲すればいいだけに、もっと楽になるし、考えなくてもできるようになる。こうしてルーティンワークが出来上がっていく。それはそれで悪くはないのであるが、時にルーティン化は人から考える力を奪っていくという弊害がある。

最初のメンバーはいろいろと考えてある手順を作り上げる。当然、その手順の意味するところも十分理解している。そこへ次世代のメンバーが入ってきて、手順だけを教えられると、今度はその手順を一生懸命やることに注力するようになる。真面目な人ほど、教えられた通りの手順でやろうとする。さらに次々世代となると、いつの間にか手順ができた経緯は忘れ去られ、手順通りにやることが目的化される。手順が絶対化されるのである。

手順通りやることが絶対化されると、時にイレギュラーの事態に対応することが難しくなる。当然のことながら、手順には何らかの目的があるわけであり、大事なことはその目的を果たすことである。目的を果たせれば手順通りである必要もない。これがわかっていれば、イレギュラーであっても可とできるが、分かっていないと手順通りでないゆえに不可としてしまう。本末転倒とも言えるべき事態が生じることになる。

確かに、前回同様にやるのは楽でいいと思う。ルーティン化されれば考えなくともいいわけで、これはこれでモノによっては良いと思う。例えばラグビーの五郎丸は、一連のルーティンによってゴールキックを確実に決められるようにしていたし、私に関しては朝の通勤については会社に着くまですべてルーティン化している。朝起きてから一連の流れにそって髭剃り、朝食等をこなし、同じ時間の電車に同じ場所から乗り、会社に到着する。アクシデントでもない限り、考えずにこなせる。そうしてその間、脳みそは読んでいる本の内容に集中したり、その時々に考えるべきことに思考を及ばせることができる。

しかし、これが仕事となると、単純な事務ならいいが、そうでなければ危険である。思考停止になるし、マンネリ化するし、何より世の中の変化についていけなくなる。私が今の会社に来た時も、そんなルーティン化が蔓延していた。それを私が業界素人であることをいいことに、一つ一つの意味を問い質し、考え直し、改めていったのである。日頃、何気なくわかったつもりでやっていても、実は改めてその意味を問われると答えられないものも多い。続ける必要があるのなら、なぜ必要なのかを改めて確認して続ける。変えるべきは変える。こうして社内の多くの事が変わったのである。

次に怖いのが、変えた後にルーティン化することだろう。人間はすぐ易きに流れる。自分自身も自分自身で変えたがゆえにこれでいいのだと思うようになる。以前所属していた組織では、それがゆえに、「毎年何かを変える」ことを自分に意識して義務付けるようにしていたのである。自分が離れた今、その組織は3年経ってもいまだ私がいた時と同じことを繰り返している・・・

昨日と同じことを今日も明日もやることは楽である。組織によっては、まるでありのまま維持することこそが大事だと言わんばかりである。同窓会組織のような無害な組織であればそれでもいいかもしれないが、営利組織では、それでは存続できないであろう。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」とはダーウィンの言葉として知られているが、まさにその通りではないかと思う。

「楽な道より険しい道を選べ」ということもよく言われるが、変えることは楽ではないと考えると、やはり常に変え続ける必要があると思う。何でも変えればいいというものではないだろうが、変えるべきか否かは常に問い続けてもいいかもしれない。
安易なルーティン化の罠に陥ることのないよう、「昨日と違う今日を生き、また今日と違う明日を迎える」という精神は常に持っていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 
 
 

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