2019年3月27日水曜日

ディズニーの『非日常』に潜む経済学

 ネットの記事を見ていたら、『テーマパーク、映画館…レジャー施設が「飲食物」の持ち込みを禁止するのはなぜ?』というテーマのものを見つけた。一瞬、「そんな理由はわかりきっているじゃないか」と思ったが、読んでみたらまったく思ってもみなかった理由が書かれていた。そこでは、東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランドの回答が紹介されていた。

担当者曰く、「お客さまに東京ディズニーリゾートの『非日常』を楽しんでいただくため、オープン当初から禁止しております。外部からお弁当などの飲食物を持ち込むことで、施設のテーマである『夢と魔法の王国』『海にまつわる伝説や物語』といった世界観が壊れてしまいます。」というものであった。「本当だろうか?」とへそ曲がりとしては思ってしまう。

なぜ自前のお弁当だと世界観が壊れてしまい、パーク内の飲食物だと壊れないのだろうか。パーク内の飲食物が外では決して食べられない『夢と魔法の国から持ってきた食べ物』『海にまつわる伝説上の食べ物』であるならその通りだと思う。百歩譲ってミッキーの形のワッフルとかおにぎりとかチキンナゲットとか、ミッキーの手の「グローブシェイプ・チキンパオ」とかだけならわかるが、普通のホットドッグやパスタやてんぷらやちらし寿司などだってお値段込みで充実している。とても世界観を気にしているとは思えない。説明としては誠に苦しいものであることは間違いない。

本当のところは、「飲食でも利益を上げるため」だろう。セット販売はマクドナルドならずとも世の常である。入場料だけではなく、グッズ販売や飲食も含めてトータルでお金を落としてもらおうという考えに他ならない。実際、子供を連れて行けば結構な出費になるのは経験済みである。ただ、『夢と魔法の国』としては、銭金にまつわる話は表に出したくないのであろうから、苦し紛れに「世界観」などという言葉を使っているのだろう。もし、本当に世界観を大事にしているのなら、ミッキーの形をしたおにぎりなら持ち込み可にしてもいいんじゃないかと思ってしまう。

「夢と魔法の国」のイメージを守るためなら、「ゴミの種類を減らすため(決まったゴミのみが生じるようにコントロールするため)」というような「言い訳」の方がまだマシではないだろうかと思ってしまう。ではそうした本音の部分の「経済的事情による禁止」が悪いかと言えばそうは思わない。それはそれなりに費用もかかっていることだろうから、自分たちの世界ではすべてのお金が自分たちに還元されるように作り上げるのも当然やってしかるべきだと思うからである。

映画館も同様であるが、同じ記事によると映画館の回答は、「回答を控えさせていただきます」とのことのようである。つまり、「あからさまに答えたくない」ということであろう。映画館であれば、無理に飲み食いしなくともと思うが、ディズニーランドでは滞在時間も長く、そうも言ってられない。気になるのはやはりお値段であるが、やっぱり高めだと感じざるを得ない。持ち込み不可で競争が存在しない以上、「好きに決められる」となればそうなるのだろう。

価格も含めて『非日常』と言う意味が込められているとしたらその通りであろう。親としては、夢から覚めて現実の日常に戻った時に、軽くなった財布を眺めてため息をついてしまう。ただし、子供が無邪気に喜ぶ顔を見ていると、また連れて行ってあげようと思ってしまうものである。子供も大きくなると、家族でディズニーに行く機会もほとんどなくなる。懐的にはいいが、あの頃の無邪気な子供たちとまた行けるなら、ディズニーの『世界観』も悪くはないと思うのである・・・




【本日の読書】
 サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル - ティエン・ツォ, ゲイブ・ワイザート, 桑野 順一郎, 桑野 順一郎, 御立 英史 ドーン (講談社文庫) - 平野 啓一郎




2019年3月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その21)

〔 原文 〕
哀公問社於宰我。宰我對曰。夏后氏以松。殷人以栢。周人以栗。曰使民戰栗。子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。
〔 読み下し 〕

哀公(あいこう)
(しゃ)(さい)()()う。(さい)()(こた)えて()わく、夏后氏(かこうし)(まつ)(もっ)てし、殷人(いんひと)(はく)(もっ)てし、周人(しゅうひと)(くり)(もっ)てす。()わく、(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむと。()(これ)()きて()わく、成事(せいじ)()かず、遂事(すいじ)(いさ)めず、既往(きおう)(とが)めず。
【訳】
哀公が宰我に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。
「夏の時代には松を植えました。殷の時代には柏を植えました。周の時代になってからは、栗(りつ)を植えることになりましたが、それは人民を戦慄(せんりつ)させるという意味でございます」
先師はこのことをきかれて、いわれた。
「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
************************************************************************************

 論語には意味のわからない言葉が時々出て来る。今回のこの言葉もその1つ。社に植える神木の歴史について話しているようでいてそうではなく、かといって親父ギャグのようなダジャレが言いたいわけではないだろう。なんとなく社の神木に政治的な意図を含めることを諌めたかのようにも思えるし、その解釈はどういうものなのか難しい。ただ、ここでは解釈を論じるつもりはなく、ここから感じたままを綴るだけである。

日本でも縁起を担いだりすることは昔からよくあることで、アパートや病院には「4号室」がないし、お賽銭に「ご縁」があるようにと5円を使ったり(その昔の銀行員は5円で作った通帳を持って口座開設の営業に回ったらしい)するが、中国もそうなのかもしれない。おそらくは「社」というのは、支配者の宮殿なのかもしれないが、ここに支配権を確立できるようにその意味を込めた神木を植えたということなのかもしれない。

そのように考えたのであれば、「市民が戦慄するように」という意図を持って栗(りつ)を植えたというのは、支配者からすれば当然の思いなのかもしれない。ただ一方で支配される者からすれば、それはまさに「シャレにもならない」と言えるであろう。ここでは「これからはこんなことを繰り返さぬように」という風に諭しているのが言葉の意味なのかもしれない。

ある願いを込めて何かをするというのはよくあることであり、身近に真っ先に思い浮かぶのは「名付け」である。生まれてきた我が子や希望を持って設立した会社や、我が家にやってきたペットなど、名付けの時にはみんなそれぞれ意味を込めたりする(まぁ我が両親のように猫にクロとかチャーとか見れば一発で理由がわかるものもあったりするかもしれない)。我が家でも我が子につける名前はあれこれ悩んだものである。

感覚的には、そういう「意味を込める」場合も「良い意味」がほとんどのような気もする。「人々を戦慄させる」ではあまりにも酷いものである。それを聞いた人がその人に抱く気持ちは好意よりも悪意になってしまう。どうせなら「平和の旋律を奏でる」という意味で「リツ」にすれば良いと思う(漢字が違うと言われればそれまでだが、まだマシだろうという程度である)。それならまだ市民の尊敬を得られるかもしれない。

とは言え、聞こえが良ければ良いかというと、これはこれでそうでもなかったりする。その最たるものが政党名である。「希望の党」、「日本未来の党(その後生活の党)」、「幸福実現党」等(明らかに如何なものかと思われるものは別として)、まぁ耳障りの良い政党名のものは多い。それはそれで良いと思うが、中身が伴ってこそなのは言うまでもないことである。

意味を込めることは大事であるが、もっと大事なのは込めた意味に見合う実践と言える。かと言って「戦慄」は困るが、良い意味であれば良い実践である。
 思いを込めて名付けた我が子もそのように育って欲しいと思うのである・・・




【今週の読書】
 サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル - ティエン・ツォ, ゲイブ・ワイザート, 桑野 順一郎, 桑野 順一郎, 御立 英史 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治







2019年3月20日水曜日

Netflix (ネットフリックス)に見る独自戦略の強み

個人的に映画鑑賞が趣味の私は、毎週末の深夜に1人でバーボン片手にそれを楽しんでいる。今はツタヤディスカスのDVDレンタルが中心であるが、いずれそれは「配信」に取って代わられるものだと考えている。既にU-NEXTHuluといったサービスが展開されているが、いずれも「料金と観られる映画の質」という観点からは満足いくものではなく、無料視聴期間だけ利用してやめている。

理想的な映画配信はもう少し先かと思っていたら、ここにきて「Amazon Prime」と「Netflix」との両方の配信サービスを利用し始めた。「Amazon Prime」は何より安い(月額400円か年額3,900円)のと、映画・ドラマに加えて音楽(Amazon Music)もあるし、さらに本業の本等の翌日配送サービスをも含めれば利用価値は十分にある。ツタヤディスカスのDVDの郵送期間のギャップを埋めるという意味でも加入するメリットは大きいと考えて加入したのである。

一方、「Netflix」はU-NEXTHuluと同じ映画・ドラマの配信のみであり、基本的な仕組みは同じであるが、違うのは何と言っても「オリジナル作品」である。映画というコンテンツはどこでも一緒な訳で、それをどう観せるかが各社の競争の根源かと思っていた。なので、月額料金とか観ることのできるコンテンツの幅で差別化を図るほかないのかと思っていたら、何と独自に映画を創ってしまうという発想が何より凄い(発想はできても実現が難しいだろう)。

そしてその肝心なオリジナル作品の「質」であるが、これがなかなかのもの。ROMA/ローマ』(アルフォンソ・キュアロン監督)が、アカデミー賞で3部門(「監督賞」「外国語映画賞」「撮影賞」)を制して話題となっているが、その他にもウィル・スミスという大物が主演する『ブライト』という映画もあって、これも観たが内容も申し分ない。B級映画でお茶を濁すことのない堂々とした「質」である。先の『ROMA/ローマ』は、劇場公開も始まったようだが、配給会社を介さずに配信プラットフォームと劇場が直接タッグを組んだ異例の興行ということで話題にもなっているようである。

百均のダイソーもスーパーのプライベートブランドも自分たちの事業を突き詰めていくと必然的にオリジナル商品に行き着く。「他にはないモノ」こそが、過当な競争を避け、自社に利益をもたらす。映画という「誰でも扱えるコンテンツ」において、「自分で創ってしまう」という戦略は圧倒的である。いくら「65,000本見放題!」(U-NEXT)、「50,000本以上見放題!」(hulu)と謳ってみても、それが魅力のないものであれば意味はない。それよりもたった1本のアカデミー賞受賞作品に心惹かれるのが人というものである。

ちょっと前まで「GAFA」と言われていたが、今はそれにNetflixを加えて「FAANG(FacebookAmazonAppleNetflixGoogle)」と言われるようになったのも頷ける。いかにオリジナルな強みを持つかがやっぱり大事である。今の会社の仕事でも「オリジナル」なものを持たなければという思いは拭えないが、なかなか一朝一夕にはいかない。それでも世の中の例を見れば心したいと思うところである。

これを機にツタヤディスカスのDVDは「月8本」コースから「月4本」コースに変更し、あとはAmazon PrimeNetflixで補う形にするようにした。これで利用料金もほぼ変わらないで済む上、「観たい時に観れる」という利便性は格段にアップした。本当は毎日でも観たいところだが、それはいつの日かわからないが、引退後の楽しみとして取っておきたいと思う。

これからもますます映画館が遠のきそうな気がする我が家の映画事情なのである・・・




【本日の読書】
 お金の流れで読む 日本と世界の未来 世界的投資家は予見する (PHP新書) - ジム・ロジャーズ, 大野 和基 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治





2019年3月18日月曜日

ルーティン化の罠

初めてのことを始める時は、何事も手探り状態であるわけで、それなりに一生懸命考えて取り組むものである。それが2回目となると前回の経験を生かしてできるわけであり、とても楽になる。3回目以降は、すでに実績ある方法を踏襲すればいいだけに、もっと楽になるし、考えなくてもできるようになる。こうしてルーティンワークが出来上がっていく。それはそれで悪くはないのであるが、時にルーティン化は人から考える力を奪っていくという弊害がある。

最初のメンバーはいろいろと考えてある手順を作り上げる。当然、その手順の意味するところも十分理解している。そこへ次世代のメンバーが入ってきて、手順だけを教えられると、今度はその手順を一生懸命やることに注力するようになる。真面目な人ほど、教えられた通りの手順でやろうとする。さらに次々世代となると、いつの間にか手順ができた経緯は忘れ去られ、手順通りにやることが目的化される。手順が絶対化されるのである。

手順通りやることが絶対化されると、時にイレギュラーの事態に対応することが難しくなる。当然のことながら、手順には何らかの目的があるわけであり、大事なことはその目的を果たすことである。目的を果たせれば手順通りである必要もない。これがわかっていれば、イレギュラーであっても可とできるが、分かっていないと手順通りでないゆえに不可としてしまう。本末転倒とも言えるべき事態が生じることになる。

確かに、前回同様にやるのは楽でいいと思う。ルーティン化されれば考えなくともいいわけで、これはこれでモノによっては良いと思う。例えばラグビーの五郎丸は、一連のルーティンによってゴールキックを確実に決められるようにしていたし、私に関しては朝の通勤については会社に着くまですべてルーティン化している。朝起きてから一連の流れにそって髭剃り、朝食等をこなし、同じ時間の電車に同じ場所から乗り、会社に到着する。アクシデントでもない限り、考えずにこなせる。そうしてその間、脳みそは読んでいる本の内容に集中したり、その時々に考えるべきことに思考を及ばせることができる。

しかし、これが仕事となると、単純な事務ならいいが、そうでなければ危険である。思考停止になるし、マンネリ化するし、何より世の中の変化についていけなくなる。私が今の会社に来た時も、そんなルーティン化が蔓延していた。それを私が業界素人であることをいいことに、一つ一つの意味を問い質し、考え直し、改めていったのである。日頃、何気なくわかったつもりでやっていても、実は改めてその意味を問われると答えられないものも多い。続ける必要があるのなら、なぜ必要なのかを改めて確認して続ける。変えるべきは変える。こうして社内の多くの事が変わったのである。

次に怖いのが、変えた後にルーティン化することだろう。人間はすぐ易きに流れる。自分自身も自分自身で変えたがゆえにこれでいいのだと思うようになる。以前所属していた組織では、それがゆえに、「毎年何かを変える」ことを自分に意識して義務付けるようにしていたのである。自分が離れた今、その組織は3年経ってもいまだ私がいた時と同じことを繰り返している・・・

昨日と同じことを今日も明日もやることは楽である。組織によっては、まるでありのまま維持することこそが大事だと言わんばかりである。同窓会組織のような無害な組織であればそれでもいいかもしれないが、営利組織では、それでは存続できないであろう。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」とはダーウィンの言葉として知られているが、まさにその通りではないかと思う。

「楽な道より険しい道を選べ」ということもよく言われるが、変えることは楽ではないと考えると、やはり常に変え続ける必要があると思う。何でも変えればいいというものではないだろうが、変えるべきか否かは常に問い続けてもいいかもしれない。安易なルーティン化の罠に陥ることのないよう、「昨日と違う今日を生き、また今日と違う明日を迎える」という精神は常に持っていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 お金の流れで読む 日本と世界の未来 世界的投資家は予見する (PHP新書) - ジム・ロジャーズ, 大野 和基 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治






2019年3月13日水曜日

求めるのは主体性

部下を持つにあたり、どんな人物が好ましいかと考えてみると、働くにあたって「自主性」というか「主体性」というか、そういう「自ら考えて動く」ことのできる人がいいとつくづく思う。「○○した方がいいと思います」と提案してくれるのはありがたいと思うが、「ではやって」と言われた時に動ける人物である。「言うだけ」なら誰でもできるわけで、せっかく提案してくれたのに、「やって」と言ってやらないのなら上司としてはそれを誰にやらせるかを考えなければならないという負担になってくる。提案する以上は、「自分でやる」という気概を持って欲しいところである。

「言うだけ」の評論家ならこちらとしてはいない方がマシと言える。こういう評論家はかなりの割合で存在していて、時々イラっとさせてくれる。うまくいかない原因を挙げて「○○だからなぁ」と分析してみせるが、「ではどうすればいいか」と問うと黙ってしまう。「した方がいい」と思うなら、自ら動いてやって欲しいところである。こうした「自分から動く」と言うスタンスを持っている人なら、是非にとも部下に欲しいと思う。

「主体的に動く」と言うことは、すなわち「考えて動く」と言うことでもある。仕事中に電話がかかってくる。それを取って要件を聞く。中小企業ではセールスの電話も多く、その大半が社長宛である。「社長さんをお願いします」と言われて素直に取り次いでいたら社長もたまったものではない。要件を聞いて単なるセールスだと判断したら、取り次がずにそこで断るという「芸当」が求められる。さらにこのセールスの話は会社にとって良さそうだと思えたなら、とりあえず自分で聞いてみる(場合によっては来てもらって話を聞く)ということができれば完璧である。

実際、中小企業ではかかってくるセールスの電話も玉石混交(あくまでも「我が社にとって役に立つ」と言う視点での話)である。面白そうだと思って話を聞き、導入したサービスも多い。自分でやってきたから、自分ができるからというつもりはないが、自分でできる以上、そんなに難しいことではないと言えるので、このくらいできるとかなり「有能な部下」と評価できると思う。

「一を聞いて十を知る」ではないが、いちいち指示しなくてもやってくれるというのはありがたいことである。ABであり、BCならば、CAである。言葉で書くと簡単だが、実際には「CAである」と言わなければわからない(やってくれない)ことがある。こちらは当然「言わなくてもわかるだろう」という思いがある。しかし、「AB」ということが事前にわかっていて、現場で「BCである」ことがわかったならば、当然「CA」という行動をとって欲しいところだが、「言われてなかったから」と言ってやらないで帰ってこられるとガックリとくる。

普段からのコミュニケーションにもよるのだろうかと考えてみるが、いちいち指図されることが嫌いな自分としては、常に自分で考えて「言われなくても」やってきた (だって「CA」だってわかるじゃないか)。それを良しとしてきたので、「言われた範囲内」でしか動けないのをただ、ただ不思議に思うだけである。

「言われた範囲内」でしか動けないというのは、裏を返せば「下手なことをして怒られたくない」という気持ちもあると思う。言われたことだけをしていれば間違いはない。余計なことをしたら怒られるかもしれないというリスクを避けたい気持ちはよくわかる。なら「余計なこと」はしなければ良い。上司に聞けば当然やれと言われるであろうことは「余計なこと」ではない。それを事前に先回りして読んでやればいいだけのことである。

思うに「仕事が面白くない」という人は、こういうことができていないのではないかと思う。常に自分自身で決定権を持ち、思うように動いていたら仕事は楽しい。あまり愉快でないことをやれと言われて渋々やっていたら面白くはない。やっぱり自分で面白みを見つけて前向きにやれば何事であれ面白いだろう。

私はよく「できない上司に仕える有能な部下」を演じているつもりで仕事をしてきた。指示が悪いのは当たり前、それをどう本来のあるべき姿に変えるか。それとなく示唆して上司に正しい指示を出し直してもらうのもいいかもしれないが、「優秀なら」それくらいのことはできるだろうと想像して取り組むのである。これでかなり上司に対するストレスは軽減されたものである。

すべてのサラリーマンの常として、上司も部下も有能であることに越したことはない。しかし、そうもいかないのが世の常。どんな人と組んでもうまくやりたいと思うが、求める理想像はどういうものであろうか。それを考えてみるのも悪いことではない。そうして改めて考えてみたところ、やっぱり部下に求めたいのは「主体性」だろうと思うに至るのは、上記の通りなのである・・・




【今週の読書】
 安売りするな!「価値」を売れ! 新版 - 藤村 正宏 下町ロケット ゴースト (小学館文庫) - 池井戸潤





2019年3月10日日曜日

論語雑感 八佾第三(その20)

〔 原文 〕
子曰。關雎樂而不淫。哀而不傷。
〔 読み下し 〕
()()わく、関雎(かんしょ)(たの)しみて(いん)せず、(かな)しみて(やぶ)らず。
【訳】
先師がいわれた。――
「関雎(かんしょ)の詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない」
************************************************************************************
言葉としては難しいが、「淫」とは「溺れない」という意味のようで、「傷」とは「うちひしがれない」という意味のようであるらしい。ここで論語を採り上げているのは、その言葉の解釈をするのではなく(そんな学もないし、それは専門家に任せたい)、その言葉から連想することを徒然なるままに書き連ねているわけであるが、今回連想したのは「節度」である。

以前、銀行員時代、競馬の好きな部下がいた。まだ当時20代の男であったが、結構競馬場に通っていたようである(私は興味がなかったのであまりその話は聞いていなかった)。職業的にいいイメージは持たれないかもしれないが、彼の銀行員らしいところは、勝負につぎ込むお金は「月10,000円」と決めていたことである。ギャンブルと言えば、のめり込んで借金までして自滅する人がいるが、さすがに銀行員らしい「節度」であった。

カジノ誘致の議論では、「ギャンブル依存症を作り出す」というような意見を言う人がいるが、みんながみんな彼のような節度を保っていたならそんな心配は無用だし、そうなったら公営ギャンブルは成り立たなくなるかもしれないとすら思う。ギャンブルには人を熱くさせるものがあり、それはよくわかる。問題はそこに金が絡むことであり、それは本来、なくなればそれまでのところだが、借金という形(あるいは手をつけてはいけないお金)で継続できることであろう。

私もかつて株をやっていたが(今も持っているだけは持っている)、やっぱり読みが当たって値上がりして利益を手にするのは何とも言えない快感である。そして勝てば自分が凄い存在になった気がして勝負に投入する金額が大きくなる。勝てば良いが、負ければ悔しくて今度はそれを取り返そうとする。そうして気がつけば深みにはまっている。

勝てると思うから資金が尽きれば借りようとする。返済は考えないかというとそんなことはなく、きちんと返そうと(返せると)考えている。何も問題はない。次の勝負に勝てばいいのだから。お金がなくなったらそこでやめれば良いのだが、今の時代は簡単に借りられる。私はそこまで落ちなかったが、気がつけば会社のお金をつぎ込んでしまい、会社が傾いてしまった社長さんもいた。

ギャンブルに限らず、酒や女で身を持ち崩す人の話は枚挙に暇がない。みんな一定の「節度」を保てば問題ないものばかりだと思うが、人が人たる所以なのか、人はしばしば節度を保つことはできず、超えてはならない一線をオーバーしてしまう。でも踏みとどまれる人はいるわけで、そうした「節度」は一体どうしたら身につくのだろうかと思わざるを得ない。「節度」を守れる人と守れない人の違いはなんなのであろう。

それは言ってしまえば「意思の力」に他ならないが、「想像力(想定力)」もあると思う。「この道を行かばどうなるのか」がきちんと想定できれば、ヤバいと思って立ち止まれるだろうと思う。それを「行けばわかるさ」ではまずいだろう。最悪のケースに陥った時にきちんとそれを回避できるのか。それができる確証があるのか。そういう事態をきちんと想定できれば、意思を持って自制できるような気がする。

資格試験の勉強をしていても、ついつい気がつけばネットサーフィンしてしまったりしている自分としてはあまり偉そうなことは言えない。快楽に溺れたいのは人間の本能みたいなものだと思うし、難しいところである。孔子に向かって誇れるとしたら、せめて楽観主義的な性格が物事を悲観的に見ることのない点で、「哀しみて傷らず」はできているところかもしれない。

節度の境界線をチラ見しながら、できるところまで人生を楽しみたいと思う自分なのである・・・




【今週の読書】
 学校の「当たり前」をやめた。 - 工藤勇一 下町ロケット ゴースト (小学館文庫) - 池井戸潤





2019年3月4日月曜日

我が子に望むこと

子供ができたとわかった時、たいていの親が望むのは、「無事に生まれてきてほしい」という事だろう。そして無事に生まれてみれば、そう望んでいたことは忘れて、「丈夫に育ってほしい」と思い、寝返りはまだか、ハイハイはまだか、言葉を話すのはいつか、立つのはまだか、歩くのはと次々に気になってくる。そして幼稚園、小学校となると人によっては、「お受験」となる。どの親も我が子を思ってのことだから悪いとは思わないが、個人的に我が子にとなると違和感を覚える。

自分の子供に対しては、自分自身「お受験」などさせるつもりはなく、娘も息子もこだわったのは、幼稚園から小・中学校と「地元」ということだけ。「歩いて通える」ということを重視したのである。よく朝の通勤電車に小学生が1人で乗っていたりするのを見かけるが、いかがなものかと思わざるを得ない。何かあったらどうするのだろうと思ってしまう。そこまでして通わせる価値のある学校があるとは思えないのである。

娘は中学を卒業して都立高校へと進学したが、その先は未定である。中学生の息子は、我が意に反して塾に通っており、成績もトップクラスである。だが、本当は今の時期に必要なのはスポーツに夢中になる事(これは野球で実現している)であり、漫画を読んだり小説を読んだり、テレビを見たりすることだと考えている。学校の成績はテストで70点くらいとれていればよく、トップクラスになどいる必要はまるでない。70点くらいの成績であれば塾へなど通う必要はないのであるが、妻の意向に素直に従う我が子にもどかしい思いがする。

我が子に望むことはただ一つ。「自分の人生を親よりも長く過ごして欲しい」ということ。それ以上望めばキリがないし、最低限それだけできれば親としては満足である。高校へは行った方がいいと思うし、大学も然り。しかし、どうしてもという事であればそれにはこだわらない。大企業に就職できるならそれも良いだろうが、できなくてもきちんと生きて生けるならいいだろう。ストリートミュージシャンだってやりたければやったらいいと思う。

今の時代も相変わらず「良い高校」「良い大学」「良い会社」という信仰がまかり通っている。特に毒されているのが世の奥様族。「どこの塾がいい」などという話はママ友間で飛び回っているようである。しかしながら、良い高校に行ってもいじめに遭うかもしれないし、受験で失敗して挫折するかもしれない。引きこもりになったり、良い会社に入っても鬱になったり過労死したりするかもしれない。東大を出て大手広告代理店に入ったのに自殺してしまった若者もいる。基本的に先の奥様族は、「入れたら終わり」だ。そこまで考えていない。世の中をきちんと生きていくには、困難・苦難・挫折の嵐は必ずあるものであり、その時それをどう耐え凌ぐかが大事であり、それをどこで学ぶべきだろうかが大事だと考えている。

自分の場合、それは間違いなく漫画であり、また映画やテレビドラマや小説だったと思う。塾へ通って勉強ばかりしていて、そういう「心の基礎体力」がつかないまま成長すれば、ちょっとした困難ですぐにへこたれてしまうと思う。今や精神医療はなんでもそれらしい病名をつけてくれるし、薬も処方してくれる。基本的に「鬱は病気ではない」と考える身からすると、どうにもいただけない世の中である。そんな中で、必要なのは「精神的なタフさ」であると思う。そしてそれは塾に行っても身につかないものである。

人生に試練はつきものであり、それは「良い高校」「良い大学」「良い会社」へ行っても避けられるものではない。ならば、それに対してどう備えるか。「これをやれば大丈夫」というものは思い浮かばないが、何となくその都度語って聞かせたい事は多々ある(聞いてくれるかはわからないが・・・)。いたずらに他所と比べてどうのこうのというのは論外。いかにして自分の人生を困難に負けずに歩んでいくか。そういう親の思いを子供には伝えたいと思う。

走り方ではなく、転んだ時にすぐに起き上がることの方が大事だし、それをこそ教えられる親でありたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界史を変えた新素材 (新潮選書) - 佐藤 健太郎 本日は、お日柄もよく (徳間文庫) - 原田マハ